
「ボーアとアインシュタインに量子を読む」を40日かけて読み進め、さきほど読み終えた。本書によって量子力学を歴史的に学ぶ機会に恵まれ、例えば相補性理論とはこういう風な理論で、どのように作られていったのかを知ることができた。この40日間、学問的には私はかなり充実していたと思う。
大学で物理学を学んだことは”About Me”に書いてあることだが、しかし私は量子力学を学びとおしていない。このことは屈辱的であった。国立大学の理学部卒、更に同大学の大学院を卒業したならば、当然知っておくべき物理学的事柄を、私は有していないのである。理由は示さない。
であるから、私は量子力学をきちんと学び得なかったことを深く反省している。コンプレックスも感じていた。そこで本書に出会い、量子力学のこと、また量子力学がどのように作られていったかを知ることができて、本当に良かったと思っている。
以下に、本書を読んでいて思ったことと量子力学自体のことを述べたいと思う。
本書を読めば、ほかのどの量子力学の本も読めると思っている。量子力学特有の考え方・概念の形成過程が丁寧に書かれており、(歴史的に)順序を追いやすいからである。対応原理と相補性理論は聞きなれなかった言葉ではあったが、輻射や原子核の話や統計力学の話題は、「そういう過程で考えられたことだったのか」と思えた。細かいところでいうのならば、Boseがインドのひとだとは思わなかったことである。
また学部生時代に使っていた量子力学の書に書かれていたこと、つまり行列力学と波動力学の形成過程も知ることができた。当時は言葉に激しく敏感であったから、知らない単語にぶち当たるとそこでつまずいてしまうことがかなりあった。
スピンについては、かなり注意深く学ぶ必要がある。量子力学特有の物理量であるし、シングレット、ダブレット…と、学部生のときに疎かにしていたところがある。
ボーア・アインシュタイン論争を読んでいくにつれ、私は思ったことがある:
測定するまで系の物理量がわからないし状態も分からないということ、実験装置も考慮に入れねばならないこと。そこで私は思った、「例えば今からミクロな物理量を実験で測定したいとする。当然、それを測定する実験装置を用意しなければならない。実験の結果は、その実験装置、実験背景に依るところがある。実験背景にまで依るのだ。そこで問題なのは、私が最初に『測定したい』と思った瞬間に、目的の物理量はどうなっているのか、またそういう私の意志は何によって起こったのか」ということを。
飛躍しすぎているが、ようするに、「実験背景」というのはどこまでを指すのかということである。
さて、今回の記事の冒頭に掲げた、「花が咲こうとしている」の意義について述べたいと思う。花は、どうして咲こうと思うのだろうか。自然界の決まりか、花の意思が存在するのか、それともただ花が咲く条件を系が満たしたからか、どれかは私には分からない。「…咲こうとしている」とは、いかにも花に意思がありそうな記述である。
哲学的な話になってしまう。量子力学は、自然というか、外部の世界というか、そういうものとの付き合い方を考えさせる学問である。
花が咲いていない状態を見て、ああだこうだ考えるのはよした方がいいというのだろうか。花が咲いているのを見てから(花びらが開いているのを測定してからor花びらが開いている状態を記述できてから)、はじめて花について考えた方がいいのか。
自然とは一体なんだというのだ。私がいま目にしているのは一体なんだろう。
どうやら私は、もっと量子力学を学ばねばならない。そのことだけは、理解できた。