黒または白の平面

なんでも、議論するには黒板かホワイトボードが必要だ。

村瀬さんは、僕の一年先輩の女子高校生だ。年齢がひとつ違うのを除いて、僕と村瀬さんの関係は、「数学ガール」に出てくる<僕>と<ミルカさん>のようだった。村瀬さんは黒板によくx軸とy軸を書いて、いろんな関数を滑らかに描写した。

そしてある日には「君はy=exp(-a*|x|)のグラフを描けるかい」村瀬さんは放課後、いきなりそんなことを僕に言うのだ。「aは実数で正の値とする」 僕はチョークを持って黒板にx軸とy軸を描く。僕がよろけた手で黒板に描き出すものなら、村瀬さんは僕の手をつかんで、「こう」と導き助けてくれる。彼女の手は、いつも温かった。

村瀬さんは、高校数学の域を超えていた。彼女は独りで二階常微分方程式の解を図示しようと、計算機センターにこもっていた時期がある。僕らの高校には、計算機センターなるものがあった。なんだか高スペックのコンピューターが並んでおいてあるらしい(僕はExcelくらいしか使えない)。その間、黒板にはgnuplotやMaxima、Sageといった文字列が並んでいた。僕にはさっぱり分からない。

彼女はたびたび、オイラーの話をしてくれる(オイラーを尊敬しているらしい。ミルカさんと一緒だ)。村瀬さんは解析学という数学の分野を学んでみたくて大学の数学科を志望していること、そして虚数の話からフーリエ解析(初めて聞く言葉だった)について教えてくれた。

「数学Ⅱ・B」では一体どんなことを学ぶんだ?」彼女は言う。僕は数学Ⅱ・Bの問題集を見せた。旺文社から出ている、「標準問題精講」だ。
「式と証明、複素数と方程式、図形と方程式、三角関数、指数関数・対数関数、微分法とその応用、積分法とその応用、数列、ベクトル」 僕は、段々と機械的に声を出している自分に気付いた。

「数学に興味がある」村瀬さんは呟いた。「私の関心事は、関数の重力力学的振る舞いだ」聞きなれない言葉が出てきた。僕は聞き返す。「村瀬さん、関数の重力力学的振る舞いというのはなんですか?」
「よく聞いてくれた。例えば、今日話した関数…y=exp(-a*|x|)という関数があったとしよう。この関数で描かれる”坂道”を考えたいんだ。この関数でも良いし、普通の三角関数でもいい。君が今日私に教えてくれた指数関数、対数関数でもいい。一番わかりやすい”坂道”は一次関数さ。一次関数の一般形はy=a*x+bというものだ」
村瀬さんは、美しい手でx-y平面に直線を描いた。
「例えばこの”坂道”に、半径r、質量mのボールを置いたとしよう。”坂道”に課すのは、表面が滑らかであること。これは簡単な物理でその後の運動が分かる」村瀬さんの話すスピードが少しだけ速くなった。興奮しているんだろう。
「私が興味があるのは、関数で表される”坂道”の上にボールを置いたとき、重力に従いその後の運動がどんなものになるかを考えることだ。私はこのことを”関数の重力的振る舞い”と名付けている」

なんでも、議論するには黒板かホワイトボードが必要だ。村瀬さんは、分厚い相対論の本を持っている。本にはたくさんの付箋がついている。いつも彼女は、直線、曲線、平面、曲面に魅了されてきた。彼女は恍惚とした表情で黒板にそれらを描写したし、コンピューターでそういう”坂道”を描き出した。関数を”描く”ことは、彼女にとってはそれだけ重要なことなんだろう。

僕は思う。
いつか彼女が自分自身の坂道を登って、彼女なりの真実を…数学的に導かれた真実を自身の手でみつけ、僕のような一般のひとにその真実を教え、数学の素晴らしさを語れることを。坂道を登り切ったら…何が待っているか分からないけれど、きっと坂道は終わらないのだろう。村瀬さんが関数の描画を恋するように、僕が村瀬さんに抱いている恋も同じレベルだと信じたい。僕らは高校生だけど、数学をここまで好きになっている。そして数学に関する議論ができる平面を大切に思えている。それはなんて素晴らしいことだろう! 思っていることを実際に描ける感動を僕らは共有できるのだ。受験まであと半年をきった。僕らは残された時間を、大切に生きたいと強く思った。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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