好きなひとの本棚

彼は、私の想像もしなかった本を読んでいるかもしれない…


「ひとの部屋に迷い込む。どんなひとかは分からない。だけれど、本棚を見れば、わかるような気がするわ」

アンリは夢のなかにいました。
ある夜のことです。その日は、仮面舞踏会のパーティがありました。アンリは12歳です、だから大人たちの趣向は分かりません。「誰も分からないひとと踊るの、私には分からない。知っているひとと、ううん、好きなひとと踊るのが楽しいんじゃない!」アンリは言います。「でも、私の好きなひとって、誰だろう…分からないわ」。アンリの身体は、つい最近、丸みを帯び、声が高くなってゆきつつありました。誰か…好きな男の子ができ始める時期でした。

大人たちはホールでいつまでも踊ってばかりいます。大人たちは何を考え、踊っているのでしょう。彼らは、誰かと踊ることには興味がないのです。踊る、という行為に意味を抱いていました。同じような仮面をつけ、同じような格好をしたひとの手を取り背中を抱き、くるくるとステップを踏みます。
アンリにとって、大人たちの区別はできません。みんな同じように見えます。区別できるとしたら、踊りかた、でしょうか。今夜のような集まりに行って、毎晩おなじくくるくるとまわってスピンをします。たまに、激しく動き回る大人がいるくらい。

つまらない夜でした。アンリは部屋を抜け出し、廊下を歩きだします。なにも面白いことはない、つまらない廊下です。同じような、毎日の繰り返し。今日はどんなにか退屈なことでしょう。まるで学校の「古典」の授業のようです。

「今日は『古典』のときと同じ。毎日同じ本を、学者たちがブツブツ言いあって、同じような注釈をつけては喜び合っている。飽きるわよ、なんで面白くないことしかできないの?」

アンリは廊下の突き当りまで来ました。突き当りには、部屋の扉がありました。

「ジャンの部屋」

と書いてありました。扉は、アンリの身長と同じくらいの高さでした。アンリは、思います。「ジャンは大人ではないでしょうね、興味があるわ、しつれい」アンリはジャンの部屋に入りました。そこにあるのは、ジャンの部屋かと誰も思うはずです。

「しっ、ひっかかった! アンリ、きみはぼくの名前を見た瞬間、まだみたことのない世界を想像した。そうして、子どもは世界を広げてゆく…」

「わたしは…子どもじゃないわ。ジャンはあなたね? はやく姿を見せなさい!」

部屋のなかは、その部屋には、たくさんの本棚がありました。アンリはびっくりしました。同じ子どもだと感じているジャンが読まなそうな本が…例えば「古典」の本がたくさんあったのです。いえ、まだアンリはジャンのことをひとかけらも分かりません。声を聞いただけです。

本棚には「古典」の他にたくさんの難しそうな本がいくつかありました。「新・天文学対話」、「プリンキピア」、「原論」。どれもタイトルを読むのにアンリには相当力がいりました。「どれも『古典』じゃない」アンリは冷ややかにそう言います。「古典」ばかり読む子ども、ジャン…アンリにはジャンはあまりいいイメージではないようです。

さきほどからジャンは姿を現わしません。アンリには、それがでも不思議に思いませんでした。アンリは、ある一冊の本をみつけます。

「桃色プディングのつくりかた」

アンリは思わず笑ってしまいます。「桃色プディング? 私は食べたことないけど、美味しそうな名前ね、ジャンもこういうのも読むのね」

「百発百中! 流れ星のあてかた」

それは、アンリの大好きな冒険ものの絵本でした。男の子に人気の絵本ですが、12歳のアンリにとっては…もう宝物です。

「スピンはめぐる」

これも、アンリの大好きな、少し大人向けの恋愛小説です。くるくるステップの踊り方で有名な著者が書いた、踊り子の話です。

…もうアンリは、ジャンの部屋にある本棚に夢中でした。いえ、こうも言っていいでしょう、アンリは、ジャンに夢中でした。もうひきとめられない、大人への階段を上っていたのです。声しか知らない男の子、ジャン。彼の声と、彼の部屋にあるたくさんの種類の本。彼についてはそれしか知りませんが、アンリの頭のなかではジャンへの想像がほとんどを占めています。

「私の部屋に来なさい! 私の本棚を見てほしいの」

アンリはジャンの部屋を出ます。
するとどうしたことでしょう、意識は遠退き、急に視界は白くぼんやりします。

「アンリ、おはよう、よく眠れた? …微熱から元どおり。母さんは安心したわ」

アンリ、12歳。どうやら夢のなかで出てきた男の子を想ったようです。思春期の少女に舞い降りた素敵な恋の時間は…果たして現実のものだったのでしょうか、それともそうでなかったのでしょうか。それを決めるのはあなたです。あなたは、今夜夢を見るかもしれないし、今夜という夢から覚めるかもしれない。なにが現実か、誰がどう決めるのでしょう。それは、本棚を見てあなたが興味のある本に注目するのと同じことかもしれませんね。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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