ITC:LIBER1

プロローグ

心には、古い塔が建っている。
昔からある、馴染み深い、愛しい場所。塔に来れば、心のすべてを見渡すことができる。
いま、わたしはなにを考えているのか。
なににつまずいているのか。
なにに苦しみ、誰にも悩みを打ち明けられずにいるのか。
なにを恐れているのか。
なにに迷っているのか。

 この古い塔に来れば、それらがはっきりして気持ちが良かった。うれしい時、たのしい時、そんな時にもわたしは古い塔へやってきた。わたしが確かに感じているものを、しっかりと確かめるために。いま、わたしは思っているんだ。生きているんだ。
 塔のてっぺんでは、強い風が吹いている。心に風が吹いている。とても強く、しっかりとした、ぶれない風だ。わたしは時々おもう、
「塔はいつから建っているのだろう。風で倒れないのかしら」
 わたしは、塔の頑丈さを調べる。それは、わたしの心のことを知ることだった。

 おひさまが天高くのぼっている。汗が額をつたう。その日は夏至に近い日だった。天文学的なことはさっぱりわからない。だから夏至がなにを意味するのか、わたしには説明できない。ただ、一年のうちで一番暑い日だと認識しているだけだ。その認識は間違っているかもしれないけれど、それでいままで通じて生きてきた。
 天文学的なこととは、そんなことかもしれない。

 古い塔から観察できることは、風の強さ、おひさまのことだけではなかった。塔のてっぺんまでのぼる途中のことだ。塔の階段がらせんのように続くが、壁に絵が描かれている。つぼを持った婦人、寝転ぶ子ども、高価そうな椅子に座る男たち。わたしは塔にのぼるたびにこの壁画を見ては思いをはせる。心のなかの博物館だ。

 古い塔には、自然的で考古学的なことがあちこちに見てとれる。だけど、自分の心のなかにそういったことがあるのは、驚いてしまう。いままでに私が経験していないもの、見聞きしていないものが詰まっているのですもの。

だって、そうでしょう?
心には、白と黒の世界がありますもの。おかしい話だわ。

 壁画がなにを語っているのか、強い風はどこから来ているのか、しらべよう。わたしは、次の日も、そのまた次の日も、古い塔へ通うことにした。わたしのことを、真に知ろうと思った。

一、湾あるふるさと

 いまは走らない日本海。
 日本海は、隼人をいつも懐かしい思いにさせていた。日本海に揺られている間は、彼にとってかっこうの深慮の時間となった。
 日本は海に囲まれている。オホーツク海、太平洋、東シナ海、そして日本海。そのなかで日本海が、隼人の心をつかんで離さなかった。彼にとって日本海は、帰るべき場所なのだ。

 ただいま、午後十時十五分。富山駅発日本海X号が到着する。隼人は読みかけの本を手にし、喫茶店を後にした。読んでいたのは、ブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙」だった。彼は大学で物理学を専攻していた。
 第二外国語はドイツ語を履修したが、それは「通過儀礼」でしかなかった。試験が終われば、習ったことの九割は忘れてしまった。それだけ薄っぺらい知識しか身についていない。
 隼人はよく友人に数学についての議論を、飯の間でも持ちかけるのが好きだった。しかし彼の友人は、飯が不味くなるからやめてくれと乞うたほどだった。

 日本海に揺られている間、彼は運命と孤独であることについて考えた。例えば今はシングルベッドに揺られているが、おれはずっと誰とも交わらない平行線のままなのか、おれの初期条件はいつ決まったのかなどと、ほぼ専門的でかつ摩訶不思議な思索がほとんどだった。

 北海道函館市の隣町。「上磯町」から「北斗市」へ名前が変わってから数年後。寝台列車「日本海」は廃止になった。それは彼にとって、故郷へ帰る道の断絶であり、日本海の枯渇を意味していた。
 しかし隼人の望郷は相変わらずにいる。富山湾、函館湾をつなぐ日本海は、ずっと彼の心をつかんで離さない。今は走らない日本海。だけども、隼人の心のなかでは、日本海はいつまでも走っていた。

みんな、元気にしているだろうか。
変わらずに笑顔でいるだろうか。

 がたごとと揺られて半日。隼人は、九年ぶりにふるさとへ帰ってきた。
隼人は家路についた、宇宙の本をしまい、難しい思考をしまい、おのれを苦しめる考えをしまい、数学談義をしまい、そして郷愁に身をゆだねた。

…風と水の丈夫よ、おかえりなさい。

 北斗市、函館市は、近年ふしぎな店がオープンしつつあった。隼人は自動車免許更新の帰りに、大規模書店へ寄った。入り口にあるカフェでエスプレッソを注文すると、真っすぐに理学系コーナーへ急いだ。その向かうさまは、まさにエスプレッソだった。理学系の書籍には、ふんだんに棚が設けられていた。その多さに隼人は驚いた。ブライアン・グリーンの続刊が置いてあるのを見て、隼人は手を伸ばした。

 隼人は仲の良い友人に、数学だけではなく専攻の物理学の話をするのももちろん好きだった。といっても、タイムマシンやホワイトホールなどといった話はしなかった。彼はそう言う話にはとびつかなかった。
「そういう話は興味ないのか?」
「質の悪いSFの産物にしか見えなくてね」と隼人は友人の問いに答える。
「それより」隼人はぎゅっとこぶしを握る。真剣な話になると彼はいつもそうした。
「二十世紀初頭の物理学の目覚ましき発展について話そう」
友人はそこでいつも彼を煙たがった。「なんだ、夢のないやつだな」と。

夢か。
夢ならあるさ。
だけど、それがなにかははっきり分からない。
輪郭を帯びていないんだ。

 隼人は、まえがきを丁寧に読んだ。購入の際の決め手になるからだ、と彼は主張する。ある時彼は友人にこんな質問をした。
「おまえは本を出した。その本には帯がついているが、さて、そこにはなんて書かれていると思う?」
「なんだよ、いきなり。まるで出版社の面接で聞かれそうなことだ」
「たしかに」
隼人はこのように時たまユニークな、へんてこな質問をするのが好きだった。だから友人はからはよく「今まであったことのないタイプ」とか「哲学的なひと」とかよく言われていた。たまに難しい思索に至るのはどうしてだろう、と自身でも考えるようだった。だから先日の日本海でのことだって、急に運命と孤独について考えだすに至ったかもしれない。隼人は、難しいひとなのだ。

 ブライアン・グリーンの次はなにか。次は数学の本だと思って棚から目を放したその時のことだった。書店の照明が妙に気になって天井を見上げた。まばゆい光が点滅するのを感じ、目を一度瞑る。そして目を開き、つぶやいた。一瞬、なにかが見えた。
「白と黒の世界…?」

 大学初年度の頃に受けた一般教養の講義の際に教材として観た、フランス映画「恐怖の報酬」のなかでの一幕。爆弾運びの末に待っていたものは…。隼人は家族からの電話を受けるために、講義室から一時的に退出しなければならなかった。だから、そのときの映画のシーンを知らないのだ。それもラストのシーンだった。彼は「恐怖の報酬」のラストシーンを知らない。ある意味、隼人にとって、「恐怖の報酬」は未完のままずっと心のなかに大切に保管されているのだ。

 一瞬の出来事だった。瞬間的に見えた「白と黒の世界」は、強烈に隼人の網膜に写された。彼は立ち眩みを起こしたが、なんとか持ちこたえ、書籍棚の側についている手すりにつかまった。

「パン屋に行こう。ちょうど空腹だし」

 書店をあとにし、隼人は北斗市にある開店したてのパン屋に向かった。世の中は、ふんわりとか、もちもちとかいう食感を求めているらしい。なかには、とろふわというものまであるらしい。隼人の朝食は、どちらかというと和食になることが多かった。山盛りになった湯気だつ白米と、規則正しく切られた豆腐とワカメが具のみそ汁と、サバの味噌煮が定番の朝ごはんだった。だから、パンのことはあまり考えなかった。大学三年のときにラテン語の特別講義を受けるまでは。

 隼人が大和志向から西洋志向に移るのは、専攻が物理学という時点でもはや必然的だったのかもしれない。彼はラテン語を学び始めるまで世界史には疎かった。ラテン語を習熟した現在でも、彼が知っている世界史は場所・時間的に限られたものだった。古代ローマと、二十世紀初頭の物理学の目覚ましき発展の舞台となるヨーロッパについてだけだ。隼人は動詞や名詞の変化表を作り、熱心に勉学を始めた。
 そして十年の月日が経った。彼はアルファベットの羅列を、まるで美術館に飾られた絵画のように鑑賞した。アルファベットのたかだか数文字の羅列でも鑑賞に値する。ましてや、ラテン文学など畏れ多くて読めなかった。
「読んだらいいのに」
 特別講義で彼と席を同じくした女子学生、真衣がたびたび手紙で薦める。彼らは十年も文通をしているのだ。人文学科だった真衣は、今では地元の神社で巫女をしているという。
「どんなのがいいだろう」隼人は迷っていた。「読むとしたら、長く壮大で読みごたえのあるものがいいな」
「なら、ウェルギリウスの『アエネーイス』なんてどう? 長く壮大で読みごたえがあると思う」
 この時、どうして真衣がアエネーイスを薦めてきたのか、隼人は分からなかった。しかし、真衣の言葉を頼りに彼はアエネーイスを深く読みこんだ。

 開店したてのパン屋に入る。店に入る前から、いい香りがすでにしていた。多くのひとがそうであるように、彼もまた、嗅覚で来店したのだ。理由なんてない。いいにおいがするからパンを求めるのだ。いいにおいを感じるからパンを求めるのだ。生きているからパンを求めるのだ。
 隼人は、それがごく自然なことになっていた。いま食べたいものにありつける時を、何よりも大事にしていた。
 数学談義だって、ラテン語鑑賞だって、ブライアン・グリーンだって。
 いま、生きていられるからこそ熱中できるのだ。

 富山県の大学に通っていたころを思い出した。

あのころ、おれは生きていただろうか?
熱中できたことはあっただろうか?

 また、難しい問いが隼人を考えさせる。大学生だったころは、友人が悩みすぎる彼を見かねて、よくビリヤードをしないかとか、海へ泳ぎに行かないかとか声をかけることがあった。隼人の心はキューに押され、波に乗ったものだった。
 しかし、昔と今では違う。いまは、一緒にビリヤードに行く仲間は誰もいないし、海へ行く機会もない。彼を誘った友人は、もういない。もう、いないのだ。
 隼人が学部生だったころに受けた線形代数の講義があった。その講義を担当していた  ニノベキ教授は、登山家でもあった。講義の合間に、よく山について話した。立山連峰に登ったときのこと、そこから見える景色や草花の美しさ、そして登山することは大勢のひとに迷惑をかける覚悟で行くこと。
 隼人は線形代数を熱心に学んだが、ニノベキの登山の話も熱心に聞いた。何か意味があるのではないか、こういう話はなにか役立つにちがいない、と条件反射的に思ったからだ。
 隼人がよく行く学生酒場があった。「叡智バー」という酒場だった。物理を知っている学生なら思わず笑ってしまうネーミングセンスに、隼人も笑った。だから一目見て気に入って常連になった。
 ニノベキが叡智バーにやって来た夜のことを、隼人は決して忘れない。ニノベキはカウンター席に座ると、カクテル「ビリヤード」を注文した。「奈波君」同じカウンター席に座っていた隼人に話しかける。
「私は線形代数を教えているが、本当はもっと大事なことを教えたいんだ」
「はい。教授のお話を聴いているとなんとなく分かります」
「君は山か海か、どっちだ?」
「川です。川は、山から湧き海へ流れます」
「山でも海でも、君のように川でも、酒をおいしく飲むこと。それが大人だ。私は二週間後に立山連峰に登る予定がある」
「三週間後の線形代数を楽しみにしています」
「ありがとう。いつもまじめに講義を聴いてくれて」
 そう言ってニノベキはビリヤードを飲み干すと、勘定を済ませ、叡智バーを出て行った。これが、ニノベキの最後の姿だった。隼人は、その日を最後に叡智バーに行くのをやめた。
 辛い思い出は、つきまとうがゆえにふりほどくのがまたつらい。

 カラカラと音が鳴る。隼人は、氷の入った冷水を飲んでいた。パン屋の帰り、隼人は実家近くにオープンしたてのカフェで、落ち着いた時間を過ごそうとしていた。さきほどの立ち眩みの件もあるし、すこしゆっくりしていこう、と。そのカフェは、函館湾を一望できた。湾あるふるさとが、そこにあったのだ。
 いま、日本海は走っていないけれど。隼人の心のなかでは、富山湾と函館湾をいつでも往復することができる。大学生だった頃を、たまに思い出す。つらい思い出も確かにある。そんな時に隼人はよくアエネーイスの一節を好んで引いたものだった。

「でもくじけてはいけない。
くよくよしても始まらない。
こんなことはいつか楽しい思い出になってしまうさ」

 第一歌の始めのワンシーン、アエネーアースの言葉だ。故郷トロイアでの戦に敗れ、落ち武者となったアエネーアースが父、息子、そして同胞と共にイタリアを目指して航海する際に仲間に呼びかけるこの言葉は、まさに今の隼人に重なるものがあった。隼人は、富山湾で沈んだのだった。

 ニノベキの訃報を聞いたのは、その叡智バーでの次の日の地球科学の講義の時だった。同じ講義を受けていた数学科の友人が、ニノベキのことを教えてくれたのだった。ここのところ風雪が強く、絶え間もなく富山県に寒気が居座っていた。
 隼人は思った、なぜそんなときに限って教授が、と。あんなに覚悟することを強調していた教授が、とも思った。
 なぜひとは山に登るか、それはそこに山があるからだ、という問答があることは隼人自身よく知っていた。しかし、隼人は反論を出さずにはいられなかった。同じ問答を、違う場所について言い換えてみる。そうして矛盾が少しでもあるならば、その矛盾点について考えてみる。

「なぜひとは海で泳ぐのか、それはそこに海があるからだ。
なぜひとは空を飛ぶのか、それはそこに空があるからだ。
なぜひとは宇宙に行くのか、それはそこに宇宙があるからだ。
なぜひとは…」

 隼人は、地球科学の講義中に疑問をひたすらノートに書きなぐった。書きなぐっているうちに、涙が出てきた。手が震えてきた。

例えば、「そこに海がある」ということは、どういうことなんだ?
存在するから、それを征服したいということか?
それがひとの目標に成り得るということなのか。

「ふるさとに湾があるということは、とても良いことです」
そのカフェのマストレスは隼人にそう言う。
「例えば、このカフェは海のすぐそばに建っていますが、台風が来たら確かに危ないです。でも、窓がきれいになるからいいんです。ほら、見てください。函館湾、今日もきれいです」
「津波が来たらどうするんですか」隼人の声はやや冷ややかだった。
「その時は、その時です」
隼人は、その言葉が決して楽観的な意味だけではないことをなんとなく察知していた。

二、音楽祭

さあ、ジゼルにテレーゼ。出番だよ。

 隼人の書く小説によく登場する二人の女性の名前。函館湾を一望するカフェのマストレスは言った。
「隼人さんの書く小説に出てくるひとの名前は、みなお洒落ですね。小説が出来上がったら、最初に読ませて下さい」

 マストレスは、隼人のために音楽祭を開いた。それも酸味の効いた、コクのある音楽祭だ。どれだけのひとが集まるのか、どれくらい盛り上がるのか。そういうことは一切考えない。ただ、彼の奏でる音楽を聴きたかったからだ。ジゼルとテレーゼのことを、知りたかったからだ。

 音楽祭のことが決まった夜、隼人の心のなかで前奏が始まっていた。

「ああ、詩歌の女神ムーサ様。どうすれば心のことが見渡せるのか、わたしにはわかりません。わたしはいつもひとの輪のなかにいました、ですからわたしはひとりになったとき、自分のことについて、深く考えることはできませんでした。難しいことだったのです。心のことについてはとても興味がありますが、いざひとりではなにもできないのです」
 心はぶるぶると震えだし、がたがたと軋みだした。
「ほら、わたしはいつもこうやって震えてばかり。ひとりではなにもできない」

ムーサはミューズ、ミューズはミュージック。
歌は、かくして後代へ語り継がれる。
あなたのしている行為は、「つくる」ということ。
「つくる」ことによって、歴史は絶えずに来ることができました。
ですから、おのがなす行為に、もっと誇りを持ちなさい。進みなさい。
立ち止まってはいけません。

 隼人は耳を澄ませた。浜辺に行き着いた波の音を聞いた。

 ザザ… ザ…  ザザザ…

「ああ、これは。ふるさとを包む湾からの『おくりもの』だ。音楽だ。わたしはひとりだ、なにもできない、しかし感じることはできる。こうやって風と水の賜物を感じることができる。それはなんて素晴らしいことなんだろう。この感性だけは大事にしていこう。書いていこう。
さあ、ジゼルにテレーゼ。出番だよ」

 音楽には、ひとそれぞれ好みがある。早いテンポで曲調の変化が激しい曲を好むひともいれば、隼人のように長く壮大で聴きごたえがある曲を好むひともいる。自身の好みを、他のひとからああだこうだと言われることはない。だいたい、ああだこうだと言われたとしても、真面目に受け取らないほうが良い。そんな声まで聴いていたら、耳が疲れてしまう。ただでさえ耳が敏感な隼人は、このことについては昔から異様に意識していた。
 富山県から半日かけて故郷である北海道道南は北斗市に帰省した隼人は、はやくもお気に入りのスポットを見つけて、内心浮かれていた。帰省するたびにここへ寄ろう、自宅よりも落ち着ける場所だ、などと安心もあった。波の音は、良いビーチコーミングになる。函館湾を見渡せる絶妙な立地。
 そのカフェのマスターは、真木美知子といった。客のなかで、隼人だけが真木のことを「マストレス」と呼んでいた。しかしある時点から彼は「マストレス」のことを「真木さん」と呼ぶようになった。マストレス、真木さん。ふたつの呼び名はまるで、コーヒーにミルクを落とした時に、時間が経つにつれ複雑に混ざり合うふたつの流体のようだった。

 ある穏やかな日の午後のこと、ショルダーバッグを下げて隼人はカフェに来店した。彼はモカとトーストを注文すると、カウンター席に座った。そして窓を一望して言った。
「今日は船が見えませんね」 真木は返した。
「午前から静かな海でした。下の浜辺では釣りをするひともいたり泳ぐひともいたりしましたよ」
「セメント工場のコンベヤーもくっきりと見えますね」
 真木は隼人の言葉に応えずに、代わりに笑顔でサービスのチョコレートを置いた。ゆったりとしたジャズが空間を満たしている。スローテンポはどちらかというと隼人の好みなので、安心して、そして長い時間そのカフェにいることができた。

「パンとラテン語について、ちょっと話を聞いてもらえませんか?」
 あまりの突然な発言に、真木は驚いた。いつもはカフェに来ても読書するくらいで帰っていく客が、カウンター席に座ってなにを唐突に、と思ったかもしれない。それは真木でなくとも驚くことだろう。隼人の話の切り出し方は、不連続であった。このことは、なにより本人が一番に痛感したことだった。
「ええと、すみません。いきなりで驚きますよね。私も、なんでこのタイミングで言ったんだろうと思いました。でも、別に驚かせてやろうとか、そういうつもりはないんです」
 隼人は、真木の様子をうかがいながらゆっくりと話すことに集中した。
「実は私、こんなことをひとに話したことはありませんでした。ただ聞いてほしくて、それだけなんです。ここは落ち着けるし、私としてはすごく良い場所です。自宅にいるといろいろと制約がかかってしまい何もできなくなるんですよね」
 真木はうなづき、隼人の発言をうながした。パンとラテン語の話が始まった。

「ラテン語に出会ったのは、大学三年の夏のときでした。当時は四年にあがるのに単位が足りないということで、長期休暇のときに開講する特別講義を受けてばかりいました。早熟の子どもとどう接するか、という特別講義も受けたことがあります。私自身が早熟でしたので、共感することや学び甲斐があることが大変に大きかったのです。最初の目的は『単位をとるため』という不出来な理由でしたが、講義というものは素晴らしく、受けた後にどれだけ心に残ったかによって重要さが分かるものです。ラテン語の講義は、いつか受けてみたいという強い志があったのです。

 きっかけは高校化学の授業中にずっと思っていたことでした。元素の周期律表を見て、カルシウム、マグネシウム、アルミニウムなどが似た語尾で終わることに注目しました。これは何か共通点があるにちがいない、と思っていたのです。いつか、これについて追及したいと考えるようになりました。化学物質の名前もそうです」
 真木は返した。
「隼人さんは一生懸命なのですね。今日はいつもにも増して目が輝いていますよ」
「そうなんですか、私自身はあまり意識してしませんでした」
「それで特別講義で、化学物質の名前について明らかにしたいと思ったわけですね?」
「はい。特別講義は五日間しかありませんが、一日中ずっと講義でみっちりです。朝から晩までずっとラテン語について学ぶわけです。辞書が引けるようになるまで」
「辞書が引けるようになるまで? どういうことですか」
「ラテン語の学習で最初に圧倒されるのは、語尾変化の多さです。変化の数はものすごくあります。意地悪なラテン語の教師は、膨大な語尾変化の数を見積もって学生を震いあがらせるのです。こんなに覚えなきゃだめだぞと。
でもそれに屈する必要はありませんでした。共通点を覚えれば、簡単な規則を覚えれば、格段に易しくなります。そして美しくもなります。詩も数式も同じです」

 そう言って隼人は、もうすぐ閉店時間であることを気にしだしてそわそわしだした。彼は、時間にもなぜか敏感だった。やがて隼人は、モカとトーストの支払いを済ませて帰ってしまった。真木は隼人の席の皿をとったが、その時にメモ用紙のようなものがひらりと落ちた。紙には次のような文字列が書かれてあった。

<MVLTAE SVNT CAVSAE BIBENDI>

 真木はつぶやく。
「なんて読むか分からないけれど、日本語が書いてあるわ。『飲む理由は、いろいろある』ですって。あらあら隼人さん、ここは酒場ではありませんよ? でも、今日はもっとあなたの話を聞きたかった」

 カフェをあとにした隼人に不思議な出来事が起こった。そうだ、不思議なことが、起こったのだ。

 ふたつの像があった。それらは、隼人の視界に入っては抜け、入っては抜ける。
「白い炎、黒い炎だ」
 彼はそう思った。そして、数日前に自信をおそった立ち眩みを思い出した。
「白と黒の世界」 隼人はふとつぶやいた。
 これらはいったいなんだ? 白い炎と黒い炎という表現は、とっさの表現とはいえ、あとからそのふたつの像を見ていてもずっとそう思えた。炎と呼ぶにそれらはふさわしく、像の底部から上部にかけて空間が揺れ上がっていた。そのさまは、温められた空気が上昇する原理をわかりやすく説明しているようだった。
 ふたつの像の背景には、紫のカーテンがかかっていた。もっとも、ふたつの炎で空間は揺らめいているせいで、カーテンもゆらゆら揺れているように見えたほどだった。

「白と黒の世界には、灰色という色は許されません」
 揺らめくカーテンの向こうからそんな声がした。屹然とした日本語だった。
「おお、そこのおかた。この像を炎と表現したのですね。炎<flamma>は女性名詞であるゆえに、これら炎を女性にして与えましょう。名はあなたが自由につけるがいい。おのがなす行為に、誇りをもっと持ちなさい」
 現象はいつもあっという間に起こる。そのことは隼人にも分かっていた。しかし、紫カーテンの向こうから聞こえた声が意味していたのは、なにか考えこまずにはいられなかった。隼人は言った。
「待ってください。私に、あなたをもっと観察させてください。私の身に何が起こっているのか、確かにしたいのです」 紫カーテンから声が返される。
「私を追いかけることは、これ以上見ることは、なりません。あなたは、灰色の要素を持っているようです。ですから、白と黒の世界には来られません。来たければ心のなかの灰色を捨てなさい。白と黒の世界には、灰色という栄光はないのです。まずはその二人と話すのです」
 紫カーテンからの声はそう話し終えると、カーテンもろとも虚空に消えてしまった。声<vox>もラテン語では女性名詞だ。だから声は女性だったのか。隼人はそう思った。
 白い炎、黒い炎を隼人はそれぞれジゼルとテレーゼと名付けた。炎は炎の形態のままで、一連の出来事の後、隼人の背後にふわふわと漂うことになった。

 三日後、カフェに隼人は来た。パンとラテン語の話の続きをし始めた。
「ラテン語の名詞には性があります。男性、女性、そして中性です。同じ講義を受けていた女学生は、いま巫女で海外文学を翻訳する仕事をしていますが、『自分の仕事はひどく背徳的だ』といつも嘆いていました。男性、女性、中性と付き合うわけですからね。実際の古代ローマ人はなんでも擬人化しました。神にさえするのです。運命の女神、平和の女神、調和の女神など、なんでもありですよ」
「かみさまですか。それは驚きです」
「古代ローマ人は農耕民族でした。牧歌的だったのです。牧神パーンというのがいたくらいですから」
 真木はきょとんとした目で隼人を見た。
「牧神パーン? パンとラテン語の話とはそのことですか? わたしてっきり食べるパンのことだと思っていました」
「はい。なんでも名付ける精神にうたれ、すっかり西洋文明に染まったわけです」

 なんだか、フランス映画のなかにいるようだった。愛と郷愁。自由と革命。科学と平和。美とワイン。流音と鼻の高さ。そして、白と黒の世界。
 一般教養の講義を受けた頃から現在にいたるまで、特にフランス文学に慣れ親しんだわけではない。フランス語を、朝食のパンのように少しかじったくらいだ。自分がフランス映画のなかにいるようで、浮かんでくる言葉の関係性は必ずしも正しいとは言えないかもしれない。だけど、それが隼人のなかでのフランス映画を象徴するものだった。
 隼人と真衣はラテン語の特別講義の終りの日に、富山市総曲輪にあるバーへ行った。その日は夕方から霧雨だった。雨夜がつくる閉感は、隼人を心地よくさせた。バーの名前は「ヌーヴェル・ヴァーグ」といった。壁には白黒の写真が何枚も貼られていた。隼人はつぶやいた。
「白黒の写真を見ていると、なんだか昔のことを思い出してしまう」
 そうね、と真衣はうなづき、ワインのコルクを開ける。
「銘柄は…ルージュ・エ・ノワールですって。スタンダールの<赤と黒>のことかしら? ワインは赤と白なのにね」
真衣はラベルに書いてあるフランス語を読んでみせた。
「流音の発音はまだまだだけど許してね。

<1985年製、ルージュ・エ・ノワール、ここに眠る。コルクが抜かれたとき、汝は真の眠りを味わうことだろう。美は永遠ではない、ゆえにいまを懸命に生きるべきである。私は願う、汝の心が私によって眠りにつくことを。限りある生を。MVLTAE SVNT CAVSAE BIBENDI>…」

「美しい」 隼人は笑みをこぼした。続けて言った。
「最後にラテン語を持ってくるとは。きみらしいよ、素晴らしい創作だと思う」
「やっぱりばれてしまうのね。ワインのラベルにこんなこと書いていない…のはやっぱり分かるわけか」
 そうして間もなく彼らは杯を交わした。卓上に運ばれたオードブルを二人でつついた。学生同士の打ち上げなどという雰囲気ではなかった。二人は成人して一年経ったばかりで、お互いの嗜好を分かっていた。部屋にはピアノによるジャズがかかっている。ロマンチック、と言えばロマンチックな夜ではあるだろう。しかし彼ら二人は、初歩とはいえラテン語を身に付けたレベルであったから、ロマンチックという月並みな言葉よりは、もっと手の込んだ言葉で修飾されるべきだった。
「僕も創作していいかな」 隼人の言葉に、どうぞ、と真衣は慎ましく耳を澄ませた。
「それでは」
 隼人は考え始め、五分ほどが過ぎた。その間、真衣は静かにワインを口に含ませ、パンとチーズをかじった。

<霧雨が降り、やがて街は霧に包まれる。静かな街は、潤いを帯びた空気に包まれじっくりと夜が明けるのを待つ。1985年に生まれた僕らだからできることは、こうやって過去のオプスをひたすらに解釈すること、パンを食べることだった。昔にもこれからにも居場所がない僕らへ、ヌーヴェル・ヴァーグを>

 真衣はすかさず言った。
「悲しいわ、とても。なぜ<夜と霧>を題材に選んだの? せっかくのおいしいワインが台無しよ」
 真衣は陽気で美しく、そして正直な女性だ。楽しい時には楽しいというし、悲しい時には悲しいという。決して嘘などつかない女性だ。いつも微笑んでいる彼女を悲しませてしまって、隼人はまずいことをしたと思った。真衣のほうは、なぜ隼人が場の空気を壊すような創作をしたのか考えていた。
「いま、あなたに習って理論的であることになってみるけど」
真衣は小首をかしげて隼人に尋ねた。
「あなたはいつも悲しげ。どうして? 私たちは同じ年に生まれた、だから背負うものは同じくあるのは確かよ。重荷になって前へ進めないときがあるのは私もそう」
「悲しくさせてすまなかった」 隼人はゆっくり声を出した。
「ありのままでいようと思ったらいつの間にか、ああなってたんだ。なぜ僕は」
「考えこまないで。なにかあったの?」
「あったけど、せっかくのこの席で話すことはできない」
「私との時間を大切にしてくれるのね。ありがとう」
 バーでは、ジャズからイージーリスニングに演奏が変わっていた。とても、ゆったりできる空間になっていた。
「ありがとう。僕のことを聞いてくれるんだね。でもやっぱり、それは今度にしよう。いまは、いまの時間を大切にしよう。きみの言う通りだよ」
「明日のひよこよりいまの卵、ね」
「ずいぶんかわいい文言だね。今を大事に、ってことかい」
「そう、フランスの学医者ラブレーの言葉よ。『ガルガンチュアとパンタグリュエル』での一節から」
「大事な言葉だ。1985年に生まれた僕らにとっては。特に」
 それから彼らは慎ましくワインを飲み合いパンを食べ合い、ひと瓶開けてバーを後にした。新しい波は、進んでいった。

「素敵ですね。牧神パーンのお話よりこっちのほうがずっといいお話だと思いました」
 真木は、感想を述べる。
「それにしても、その頃から創作はお好きだったのですか?」
「はい。創作はとても大事なことです。最初の頃は、心安い趣味にすぎませんでしたが、回数を重ねるごとに次第に創作への思いが変わってきました」
「1985年に生まれたからですか?」
「はい。そうも考えるからです」
隼人はきりっとし、そう答えた。

 ヌーヴェル・ヴァーグでの夜からしばらく経った日のこと。隼人の頭のなかに、ふたりの女性の名前が絡めつき始めた。創作は、いっそう濃くなり始めたのだった。

三、想像にまかせる

 夢にジャミングが走った。
 大学生の、ひとり暮らしをしていたころから、たびたびそういう不連続な夢の境界線が走ったことがあった。隼人はまた例のか、と思った。彼にとっては日常茶飯事の出来事だった。
 心のことは、どうなっただろう。いつか見た、そびえ立つ塔のことを思う。彼は夢のなかでジゼルとテレーゼを生み出し、会っていたのだ。その塔の下で、彼は彼女たちと待ち合わせをする。子どもの頃に見た白黒映画のワンシーンのような出会いがそこにはあった。
 ジゼルはボーイッシュな女性だ。朱色の髪が短く整っていて、緑か青のインナーに白のオーバーオールをいつも着ている。目をきりっとさせ、隼人の話を注意深く聴いている。彼女の投げかける質問は、語る立場の、「講義」をする立場の隼人をしばしば興奮させた。テレーゼは物静かな女性だった。ふんわりとした髪をなびかせ、カフェオレを飲みながら黙って隼人の話を聴いている。たまに投げかける疑問は、一聞するとへんてこなものに聞こえたが、後から考えてみると深い意味を持っているものが多かった。赤いシャツを着て黒スーツをくたびらせている彼女は、難しいものをそれとなく受け止めてそれとなく理解しているひとのように思えた。
 その日、ジゼルとテレーゼに一講義を終えると、隼人はそびえ立つ塔をあとにした。しかし、そこで「こと」が起きた。

「やあ、フェアリーテイル。元気かい」

 隼人は後ろから何者かに体をつかまれ、羽交い絞めにされた。彼は「何者か!」と唸り、唸ったが、抵抗すべくもなくその者の言うことを聞くしかなかった。

「私が見えるかね。影が見えるかね。私のことは、『タイムアタッカー』と認識しておいてほしい。時間を攻撃する者、という意味だよ。簡単だろう? いまから君に最高の夢を与えよう。人類史上、類を見ない素敵な世界にトリップしてもらう」
バチバチと脳のなかで電気信号が激しく走査する。その痛みを認識した瞬間に、隼人は現実世界―ものすごく陳腐な表現だが―から消え去ってしまった。

 あの頃が懐かしい。心のなかで描いていた風景がよりどころだったあの頃が、とても懐かしい。できることなら、もう一度…否、何度もあのそびえ立つ塔のもとへ行って、ジゼルとテレーゼに会いたいものだ。
 夢にジャミングが走ったあの日から、私はたまに想像ができなくなる。この脳に残っている影が夢などと私は思いたくはない。

フェアリーテイル、
「誰にも分からない出来事」は、
やはり封印するべきなのか?

 なぜそいつが、一体なんのために、とひとびとは言う。だが、私はあえて追及しない。そうしたら、そいつの存在を仮にとはいえ認めてしまうことになるだろう? だから、タイムアタッカーがどう、とかいまさら議論してもしょうがないことなんだ。だから、あの日のことは、きみの想像にまかせるよ。

 子どもの頃から、いろいろな想像的・創造的な遊びが隼人は好きだった。

 レゴブロックなどについてきた人形や、ぬいぐるみに名前をつけて、お芝居させる。彼らにはどんな能力があって、どんな目標があるのか。
 隼人は全部そういったことを割り当て、芝居を楽しんだ。やがて頭のなかで劇場ができる。出演者が決まる。テーマ曲が決まる。セリフが決まる。
 脚本を書くのも隼人は好きだった。例えば、このひとはこの時にどんなことを言いそうか、また、言わせると面白いか。そんなことを考えるのが好きだった:


La Boite Miniature

-1-
「大人になるのは女性のほうが早い」。
 そのことをファイはその日に初めて知った。それが真実かどうかはともかく、彼はそう意識し始めた。きっかけは、なんてことのない、いつも遊ぶ公園でのこと。時は夕暮れ、赤焼けた空が一層映える日のことだった。友だちのひとり、イグレがこう言った。
「さあ、おもちゃを箱に片付けるわよ。みんなでやるの。早く帰らなくちゃお父さんお母さんが心配するから」
 イグレは、ファイが好きな女の子だった。

-2-
「ずいぶん、大人めいたことばをつかうなあ」
 8歳のファイはイグレに更に惹かれた。その辺の男子よりも背が高く、勉強もスポーツも卒なくこなせる。それでいて、いじめられているところを見ると、守ってあげたくなる特別な存在。ファイでなくとも、その頃の男は大抵はそんなものだと言ってたのは誰か。
 その日から3日も経たない内に、イグレは転校した。いや、「してしまった」というべきか。
 ファイの初恋は、そこで終わったのだ。

-3-
 ラ・ボワット・ミニアチュール。なぜこの絵はそんな題名がつけられたのか、私には理解できない。
 カルチェ・ラタンの一角。あるカフェにかけられた一枚の絵と向き合って、約2時間。絵画を見るのは好きだ。カフェの外では、アコーディオン奏者が何回目かのループを演奏している。それにしてもこの少女、どこか寂しそうで遊び足りなさそうだ。
 いつかの、過去が迫ってくる…。

-4-
 小学校の頃はみじめな思いをしたものだ。中・高校生の頃が、いままで生きてきたなかで花を添えるべき時だろう。才を認められて渡仏し、高等師範学校で数学を学んだ。卒業後もフランスに住み続け、今ではパリ在住の妻子持ちである。
 迫ってくる過去は、あの8歳の頃の思い出だった。しかし、異国の地に立った時点で、その思い出はかき消えた。

-5-
「エクスキュゼモワ。ファイさん、2週間前にあなたと同じく時間をかけてこの絵と向き合っていた方がいました」
 マスターからそんな言葉が飛んできた。
「モンマルトルに住む女性です」
 酸味の効いた味わい深いコーヒーの香りが漂ってくる。いつも無口なマスターが口を開くなんて。
「ぜひとも会ってみたいですね。奥から手前まで迫る立体構造にとても惹かれました。少女の立ち位置、花々の発散の様子も斬新で素晴らしいと思います」

-6-
 ラ・ボワット・ミニアチュール。なぜこの絵にこのような題名がつけられたのか、私は理解できる。まず浮かんだのが、この女の子の気持ち。
『お母さん、まだかな…?』
 この子の生命力は、飛び出す花々にいっぱい表現されて斬新だ。だけど、女の子はいつか「女の子」を卒業する時がやってくる。そのいつかが窓の向こうの夢の世界で、本当に向かうのは、階段のほう。さあ、おもちゃを箱に片付けるわよ。早く帰らなきゃ…。

-7-
「異なる立場、人格でも、共感できるところはある。それはとても素晴らしいことだ。世代、性別、人種を越えて共有できるものがある。それは人間の素晴らしい財産で、ずっと引き続けられなくてはならない」
 カルチェ・ラタンの一角。ファイとイグレは再会した。そして、喜ぶ暇もなく絵の解釈について熱い議論を交わした。過去の思い出につまずかず、それを乗り越えて新しい、人間としての関係を築いていった。
 昔の話などは、いらない。今こそ、階段をのぼるべき時なのだ。

-8-
 イグレ、という女の子がいた。父は日本人、母はフランス人の、いわゆるハーフだ。名前の由来は、”Y”のフランス語読み、「イグレック」から。道を進んでいて、皆を分かつ時にこそ先頭に立て、という父からのメッセージらしい。確かに彼女は、みんなに後姿を見せ、突き進むように育った。
「でも…母が早くに亡くなってしまって。それで渡仏したの」
 イグレの顔が、曇った。

-9-
 なんでもできて…なんてね。正直、無理してた。ある夜、夢を見た。死神に鎌の先端部で首をなでられる夢。そしていうの、「きみは美しい夢を見過ぎたんだ」って。
 渡仏の旅は、終わらないわ。母の生まれ故郷がまだ分かっていなくって。そこに住んで普通に生きて、真剣に遊びたい。人生という「おもちゃ箱」を開けるのは、いまなのよ。だから、ごめんなさい、わたし、これから大人になるの。だから…さよなら、あの日のおもちゃ箱、ラ・ボワット・ミニアチュール。


 このように、いつも結末はほろ苦さはあるけれど、登場人物の想いが如実に語られるのは隼人の作風だった。隼人は昔の原稿をとり、これを、ラ・ボワット・ミニアチュールを、音楽祭の主題にすることに決めた。それにはおもちゃ箱と、アコーディオンが必要だった。

 ただうるさいだけの音楽などいらない。叫ぶような、そんな声が嫌だった。大声は、なんにも心を通らない。
 アコーディオンの調べが思い出を起こす。隼人が小学生だった頃の思い出だ。

 二時間目と三時間目のあいだの中休みでのことだった。
ななみはやとと、彼の友だちは校庭で30センチ定規でチャンバラをしていた。同じクラスの女子は彼らを見て呆れかえっていた。あぶないからやめなさい、先生におこられるから、などと彼らに呼び掛ける女子児童もいた。しかし、彼らを止める児童は誰もいなかった。みんな彼らには近づけないし、先生を呼びにいくにしてもここは校庭のはじっこで。自分も同罪だと思われ、「なんてことしてるの!」と自身も怒られるかもしれない。

「アバンストラッシュの練習だそうです」

などと真面目に答えようなら、大目玉を食らうかもしれない。はやとは、もうすでに30センチ定規をすり減らしていたし、息もぜえぜえさせていた。彼は、喘息持ちだった。

それなのに、おまえ、
剣術の練習をしていたのかい?

 思い出にジャミングが走った。昔の、もう変えることのできない思い出に、ジャミングが走ったのだ。
「何者か?」 隼人は叫んだ。

わたし? わたしのことですか。
あなたの昔に入り込んでいるわたしのことを聞いているのですか。気付けたということ?
よろしい、では、わたしのことは好きにお呼びなさいな。
ところであなたに関していくつか伝えなけれなならないことがあります。あなたのこの夢のなか、またこの思い出のなかの世界はかき消えようとしています。
防ぐには、あなたのこの…母校の校庭にある小さな家をみつけなさい。そうすれば、もう頭のなかのジャミング…あなたがそう呼んでいるものは二度と走りません。伝えたいことはここまで。
わたしの介入も、ここまでです。それでは、さようなら。

 屹然とした日本語だった。この声は、なにかに似ていると思った。そうだ、先日の書店でのめまい、マストレスに初めてパンとラテン語について話した日の、その後に出会った紫カーテンの声に、すごく似ていた。もしかしたら、同じなのかもしれない。
 隼人は、まだ思い出のなかにいた。自分自身の像は確かにいま、動いている。体中には血が流れているし、ちゃんと呼吸している。ものごとだってきちんと考えられる。しかし、周りの情景は止まったままだった。はやとに友だちに、周りを囲む女子児童たち。彼らは止まっていた。微動だにしない。こんなことがあるだろうか? 思い出だけが、昔の情景だけが、凍りついたように動かないのだ。
 辺りを見回した。一見しただけでは、特に何も変わったものは見当たらない。思い出を「凍結」させたものがどこかにあるはずだ、と隼人は思った。
 母校の校庭にある小さな家、と声は言った。それはなにで、どこにあるのか。隼人は、それを突き止めようと思った。
 小さな家というのはいったいなんだ。隼人は考えた。一歩を踏み出した。
 隼人が立ち上がると、音楽室から音が聞こえてきた。アコーディオンの音だった。しかし、校庭にはアコーディオンの愉快なメロディが流れているだけだった。

 楽器とはなんだろう。
 小学校の頃は、音楽の授業は隼人にとって苦しみでしかなかった。何度も練習してもいっこうに上達しないリコーダーや鍵盤ハーモニカを、クラスメイトみんなの前で演奏させられる音楽の授業は、隼人にとって苦しみでしかなかったのだ。苦しみはやがて精神的痛手となり、音楽そのもののに対する忌避感へ転じる。「音楽なんてだいっきらいだ」という思いができあがる。だから、CDを買ったことはなかった。
 けれど、CDを買った、中学生の時に。きっかけは、スーパーファミコンのゲームのサウンドを好きになったからだった。ピコピコ電子音に、彼は魅了されたのである。音楽を別の切り口から好きになれたのは、彼自身とても驚いたし、新鮮だった。

「だけど…そのピコピコ音は、私は苦手です」
凍結した思い出から、夢から覚めた隼人は、カフェで真木と話しに来ていた。
「切り口はどうあれ、苦手だったものを好きになれたんです。ピコピコは、私にとって音楽の始まりにすぎません」
「…音楽の始まり?」真木は小首をかしげ、隼人は語りだした。
「あのころ、リコーダーや鍵盤ハーモニカを皆の前で演奏するのが死刑にも等しく感じられていたあのころから、私はだいぶ変わりました。人前で歌えるようになりましたし、こうやって楽器を求めるようになっています」
「楽器を求めているのですか。私も、全てのひとには聞かせられはしないけれど歌えます。聴いてくれるひとがいると嬉しいですよね」
「はい! とても」

「物理学と楽器の話をしましょう」隼人は突然話し出した。
「全ての物理学者は楽器を持っています。ナブラという竪琴です。そして、聞く耳も持ち合わせています。デルという耳です」
「物理学者さんは音楽が好きなのですね」
「そうです。彼らはナブラを愛しています。自分たちの叙事詩を奏でるための楽器ですから」
「隼人さんもお持ちに?」
「はい、もちろんです。ナブラなしでは、物理学は奏でられません」
 しばらく、沈黙が続いた。しかしそれは、気まずい類いの沈黙ではなかった。隼人も真木も、お互いのことを想って話題を探している最中だった。それは、互いの胸中を察しようとし、協奏しようとする自然の営みだった。
「小学生のころ、吹奏楽に憧れていました」話し始めたのは真木のほうだった。
「いろいろな楽器があって、楽しそうだなって思ったんです。みんな違う音の出しかたをするし、いろいろ違う音が出るし、私はすごいなって子どものころに思ったんです」
人生もそうだ、と隼人は心のなかでうなずいた。
「物理学者は弦楽器が大好きです」隼人は言う。
「彼らは、全ての現象を…身の回りの現象から原子分子の世界から宇宙にいたるまで、全て弦楽器で解明しようとします。楽器、すごいですよね。…ところで」隼人はコップ一杯の水を飲み干すと、
「いまの気持ちをうたにしてもよろしいでしょうか」こう言って立ち上がった。
「もちろんです」真木は、明快な声で返した。今の気持ち、と彼は言ったが、真木はそれが「即興の彼の気持ち」ではないことにうすうす気づいていた。
だって、いつも無口な彼ですもの。こうやってしゃべるのにはなにかあるにちがいないわ。

 隼人は、テーブルにメモ帳を立てると、うたい始めた。
「それでは、『わかりあうこと』についてうたいます。

自然はひとを詩人にする。
数学はひとを詩人にする。

ひとは自然を破壊した。
ひとは数学を回避した。

詩人は全てを橋渡しする。
詩人はなにも破壊しない。

全ては言葉であり、
それは橋渡し以外の
なにものでもない。

 まだ不出来ですが、と言って隼人は座った。いや、座ろうとした、そのときだった。テーブルに立てたメモ帳がぱたん、といって音を立てて倒れた。メモ帳に書かれた何かが上側になって倒れた。真木はその「何か」を認めて口に出すところだった。メモ帳には、二等辺三角形が描かれてあった。真木のみたところでは、底辺を上向きにした、いわゆる逆三角形に見えた。
 函館湾は、今日も静かだ。ただ、波の音が聞こえる。波の音を背景に、隼人の透き通る声がカフェ中に広まった。ほかに客は誰もいない。というか、客が他にいたところを、隼人はみたことがなかった。
 彼は、自分のうたったうたがどう聞こえたか不安には少しも思っていないようだった。それは、駅や空港に置かれたピアノを、赴くままに弾く奏者の気持ちに似ていた。コンサートとしてではない。

ただそこに楽器があるから、奏でたいだけなんだ。

「隼人さん、メモ帳が倒れましたけれども」
「ああ、これはこれは。私の大切な楽器が」
「楽器なんですね」
「ええ、そうです。物理学者の持っている、あの竪琴ですよ」
真木は、息をのんだ。

カフェの帰り道に、ふと、自身の背後に漂うふたつの炎に話しかける。
「白い炎、黒い炎。ジゼルとテレーゼと名付けたが、あのころの…そびえ立つ塔の下で会っていた頃のきみたちとは違う。私はいま、あのころほどの想像力より乏しい…だからこうやって目の前にあるものに直接名付けて、具象化するしかないのさ。私がどれほどぶつぶつ言おうが、きみたちふたつの炎は何の返事もくれやしない。だけれども、そんなことでひがんでもしようのないことだ。私はナブラでアコーディオンを探すだけさ」

紫カーテンの声を頼りにすれば、母校の校庭にある小さな家にある何かを用いれば、自分の思い出の世界は消されずに済むという。小さな家。それはなんだろう?
白い炎のジゼルは、見かねてか口を開いた。
「それは私と同じ色をしています。それには、扉がついていて、なかも私と同じ色をしていて、いろいろな機器が備わっています」
か弱く、よわよわしい声だった。元来の、ボーイッシュなジゼルでは到底なかった。いや、そういう風になったジゼルだろうか?
ともあれ、と隼人は考えた。校庭にある、小さな家、扉があり、白い色をして、なかには…機器? なにをするための機器なんだろう?
 そこですかさず黒い炎のテレーゼが言った、
「その家のなかで、待っています。いまは直接そのものがなにか、お伝えすることはできません」
 ふたつの炎は、そこでぼうっと消え去ってしまった。

「まるで…たましいだ」
直観的に隼人は思った。そのふたつの炎は、まるで魂のようだ。そして自分は、魂の抜けた、むくろのようだ。

たぶん、これからも私が感情的になる時はないだろう。
少年期に感情的過ぎたせいか多くの損害を被り、
精神がおかしくなったのだ。

この国で長く生きよう、とは到底思えない。
なんの希望も、ない。なんの希望も。
長く生きることに何の意味があるのか。
早々に去った方が良いのではないか思いさえもする。

ある時からか。
自分で体を動かしていない意識はしていた。
他人に体を動かされているような、そんな不思議な感覚がある。
自分で生きている気がしないのだ。
いつの間にか、私は希薄になっていた。

 アコーディオンの音色が聞こえる。たぶん、母校の児童たちの、吹奏楽かなにかじゃあないのか、と思った。むくろの行く末を決定づけるのには…よい鎮魂歌かもしれない。
 隼人はその場に伏し、動かなくなってしまった。本当にむくろにでもなったかのように。数人の校庭で遊んでいた児童は、そんな彼を見て、悲鳴を上げた。その悲鳴も、隼人には聞こえない。

誰にも分からない出来事は、封印されるべきなのか?
フェアリーテイル。

(つづく)