「雲に君見む」1-4

富山県の大学に通っていたころを思い出した。

あのころ、おれは生きていただろうか? 熱中できたことはあっただろうか?

また、難しい問いが隼人を考えさせる。大学生だったころは、友人が、悩みすぎる彼を見かねて、よくビリヤードをしないかとか、海へ泳ぎに行かないかと声をかけることがあった。隼人の心はキューに押され、波に乗ったものだった。

しかし、昔と今では違う。いまは、一緒にビリヤードに行く仲間は誰もいないし、海へ行く機会もない。彼を誘った友人は、もういない。もういないのだ。

隼人が学部生だったころに受けた線形代数の講義があった。その講義を担当していたニノベキ教授は、登山家でもあった。講義の合間に、よく山について話した。立山連峰に登ったときのこと、そこから見える景色や草花の美しさ、そして登山することは大勢のひとに迷惑をかける覚悟で行くこと。

隼人は線形代数を熱心に学んだが、ニノベキの登山の話も熱心に聞いた。何か意味があるのではないか、こういう話はなにか役立つにちがいない、と条件反射的に思ったからだ。

隼人がよく行く学生酒場があった。「叡知バー」という酒場だった。物理を知っている学生なら思わず笑ってしまうネーミングセンスに、隼人も笑った。だから一目見て気に入って常連になった。

ニノベキが叡知バーにやって来た夜のことを、隼人は決して忘れない。

ニノベキはカウンター席に座ると、カクテル「ビリヤード」を注文した。

「奈波君」同じカウンター席に座っていた隼人に話しかける。

「私は線形代数を教えているが、本当はもっと大事なことを教えたいんだ」

「はい。教授のお話を聴いているとなんとなく分かります」

「君は山か、海か、どっちだ?」

「川です。川は、山から湧き、海へ流れます」

「山でも海でも、君のように川でも、酒をおいしく飲むこと。それが大人だ。私は二週間後に立山連峰にのぼる予定がある」

「三週間後の線形代数を楽しみにしています」

「ありがとう。いつもまじめに講義を聴いてくれて」

そう言ってニノベキはビリヤードを飲み干すと、勘定を済ませ、叡知バーを出て行った。これが、ニノベキの最後の姿だった。隼人は、その日を最後に、叡知バーに行くのをやめた。

つらい思い出は、つきまとうがゆえにふりほどくのがまたつらい。

カラカラと音が鳴る。隼人は、氷の入った冷水を飲んでいた。パン屋の帰り、隼人は実家近くにオープンしたてのカフェで、落ち着いた時間を過ごそうとしていた。さきほどの立ち眩みの件もあるし、すこしゆっくりしていこう、と。そのカフェは、函館湾を一望できた。湾あるふるさとが、そこにあったのだ。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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