「雲に君見む」2-2

音楽は、ひとそれぞれ好みがある。早いテンポで曲調の変化が激しい曲を好むひともいれば、隼人のように長く壮大で聞きごたえがある曲を好む場合もある。自身の好みを、他のひとからああだこうだと言われる筋合いはない。だいたい、ああだこうだと言われたとしても、真面目に受け取らない方が良い。そんな声まで聴いていたら、耳が疲れてしまう。ただでさえ耳が敏感な隼人は、このことについては昔から異様に意識していた。

富山市から半日かけて故郷である北海道道南は北斗市に帰省した隼人は、はやくもお気に入りのスポットを見つけて、内心浮かれていた。帰省する度にここに寄ろう、自宅よりも落ち着ける場所だ、などと安心もあったのだ。波の音は、良いビーチコーミングになる。函館湾を見渡せる絶妙な立地。

そのカフェのマスターは、真木美知子と言った。客のなかで、隼人だけが真木のことを「マストレス」と呼んでいた。しかしある時点から彼は「マストレス」のことを「真木さん」と呼ぶようになった。マストレス、真木さん。ふたつの呼び名はまるで、コーヒーにミルクを落とした時に、時間が経つにつれ複雑に混ざり合うふたつの流体のようだった。

ある穏やかな日の午後のこと、ショルダーバッグを下げて、隼人はカフェに来店した。彼はモカとトーストを注文すると、カウンター席に座った。そして窓を一望して言った。

「今日は船が見えませんね」

「午前から静かな海でした。下の浜辺では釣りをするひともいたり泳ぐひともいたりしましたよ」

「セメント工場のコンベヤーもくっきり見えますね」

マストレスは隼人の言葉に答えずに、代わりに笑顔でサービスのチョコレートを置いた。ゆったりとしたジャズが空間を満たしている。スローテンポはどちらかというと隼人の好みなので、安心して、そして長い時間そのカフェにいることができた。

「パンとラテン語について、ちょっと話を聞いてもらえませんか?」

あまりの突然の発言に、マストレスは驚いた。いつもはカフェに来ても読書するくらいで帰っていく客が、カウンター席に座って何を唐突に、と思ったのかもしれない。それはマストレスでなくとも驚くことだろう。隼人の話の切り出し方は、不連続であった。このことは、なにより本人が一番に痛感したことであった。

「ええと、すみません。いきなりで驚きますよね。私も、なんでこのタイミングで言ったんだろうと思いました。でも、別に驚かせてやろうとか、そういうつもりは全くないんです」

隼人は、マストレスの様子をうかがいながらゆっくりと話すことに集中した。

「実は私、こんなことをひとに話したことはありませんでした。ただ聞いてほしくて、それだけなんです。ここは落ち着けるし、私としてはすごくいい場所です。自宅にいるといろいろと制約がかかってしまい何もできなくなるんですよね」

マストレスはうなづき、隼人の発言をうながした。パンとラテン語の話が始まった。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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