「ラテン語に出会ったのは、大学三年の夏のときでした。当時は四年にあがるときに単位が足りないということで、長期休暇の時に開講する特別講義を受けてばかりいました。早熟の子どもとどう接するか、という特別講義も受けたことがあります。私自身が早熟でしたので、共感することや学びがいがあることが大変に大きかったのです。最初の目的は『単位を取るため』という不出来な理由でしたが、講義というものは素晴らしく、受けた後にどれだけ心に残ったかによって重要さが分かるものです。ラテン語の講義は、いつか受けてみたいという強い志しがあったのです。
きっかけは高校化学の授業中にずっと思っていたことでした。元素の周期律表を見て、カルシウム、マグネシウム、アルミニウムなどが似た語尾で終わることに注目しました。これは何か共通点があるにちがいない、と思っていたのです。いつか、それについて追及したいと考えるようになりました。化学物質の名前もそうです」
真木は返した。
「隼人さんは一生懸命なのですね。今日は、いつにも増して目が輝いていますよ」
「そうなんですか、私自身はあまり意識していませんでした」
「それで特別講義で、化学物質の名前について明らかにしたいと思ったわけですね?」
「はい。特別講義は五日間しかありませんが、一日中ずっと講義でみっちりです。朝から晩までずっとラテン語について学ぶわけです。辞書が引けるようになるまで」
「辞書が引けるようになるまで? どういうことですか」
「ラテン語の学習で最初に圧倒されるのは、語尾変化の多さです。変化の数はものすごくあります。意地悪なラテン語の教師は、膨大な語尾変化の数を見積もって学生を震いあがらせるのです。こんなに覚えなきゃだめだぞと。
でもそれに屈する必要はありませんでした。共通点を覚えれば、簡単な規則を覚えれば、格段に易しくなります。そして美しくもなります。詩も数式も同じです」
そう言って隼人は、もう閉店時間ですよねとモカとトーストの支払いを済ませて帰ってしまった。真木はカウンター席の皿を取ったが、その時にメモ用紙のようなものがひらりと落ちた。紙には次のような文字が書かれてあった。
〈MVLTAE SVNT CAVSAE BIBENDI〉
「なんて読むか分からないけど、日本語が書いてあるわ。『のむ理由は、いろいろある』ですって。あらあら隼人さん、ここは酒場ではありませんよ?でも、今日はもっとあなたの話を聞きたかった」
カフェをあとにした隼人に不思議な出来事が起こった。そうだ、不思議なことが、起こったのだ。
ふたつの像があった。それらは、隼人の視界に入っては抜け、入っては抜ける。「白い炎、黒い炎だ」彼はそう思った。そして、数日前に自身をおそった立ち眩みを思い出した。