「雲に君見む」2-5

なんだか、フランス映画のなかにいるようだった。愛と郷愁。自由と革命、科学と平和、美とワイン、流音と鼻の高さ、そして、白と黒の世界。

一般教養を受けた頃から今現在にいたるまで、特にフランス文学に慣れ親しんだわけではない。フランス語を、朝食のパンのように少しかじったくらいだ。だから、自分がフランス映画のなかにいるようで、浮かんでくる言葉の関係性は必ずしも正しいとはいえないのかもしれない。だけど、それが隼人のなかでのフランス映画を象徴するものだった。

隼人と真衣は、ラテン語の特別講義の終わりの日に、富山市総曲輪にあるバーへ行った。その日は夕方から霧雨だった。雨夜がつくる閉感は、隼人を心地よくさせた。

バーの名前は「ヌーヴェル・ヴァーグ」と言った。壁には白黒の写真が何枚も貼られていた。

「白黒の写真を見ていると、なんだか昔のことを思い出してしまう」

そうね、と真衣はうなづき、ワインのコルクを開ける。「銘柄はルージュ・エト・ノワールですって。スタンダールの〈赤と黒〉のことかしら? ワインは赤と白なのにね」真衣はラベルに書いてあるフランス語を読んでみせた。「流音の発音はまだまだだけど許してね」

〈1985年製、ルージュ・エト・ノワール、ここに眠る。コルクが開かれたとき、汝は真の眠りを味わうことだろう。美は永遠ではない、ゆえに今を懸命に生きるべきである。私は願う、汝の心が私によって眠りにつくことを。限りある生を。

MVLTAE SVNT CAVSAE BIBENDI〉

「美しい」と隼人は笑みをこぼした。続けて言った。

「最後にラテン語を持って来るとは。君らしいよ、素晴らしい創作だ」

「やっぱりバレてしまうのね。ワインのラベルにこんなこと書いてあるわけないのは、やっぱり分かるわけか」

そうして間もなく彼らは杯をかわした。卓上に運ばれたオードブルを二人でつついた。学生同士の打ち上げなどという雰囲気ではなかった。二人は成人して一年たったばかりで、しかしお互いの嗜好も分かっていた。部屋にはピアノによるジャズがかかっている。ロマンチック、と言えばロマンチックな夜ではあるだろう。しかし彼ら二人は、初歩とはいえラテン語を身につけたレベルであったから、ロマンチックという月並みな言葉よりは、もっと手の込んだ言葉で修飾されるべきだった。

「僕も創作していいかな」隼人の言葉に、どうぞ、と真衣は慎ましく耳を澄ませた。「それでは」、と考え、五分ほどが過ぎた。その間、真衣は静かにワインを口に含ませ、パンとチーズをかじった。

〈霧雨が降り、やがて街は霧に包まれる。静かな街は、潤いを帯びた空気に包まれじっくりと夜が明けるのを待つ。1985年に生まれた僕らだからできることは、こうやって過去のオプスをひたすらに解釈すること、パンを食べることであった。昔にもこれからにも居場所がない僕らへ、ヌーヴェル・ヴァーグを〉

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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