「悲しいわ、とても。なぜ〈夜と霧〉を題材に選んだの? せっかくのおいしいワインが台無しよ」
真衣は陽気で美しく、そして正直な女性だ。楽しいときには楽しいと言うし、悲しい時には悲しいと言う。決して嘘などつかない女性だ。いつも微笑んでいる彼女を悲しませてしまって、隼人はまずいことをしたと思った。しかし、真衣はなぜ隼人が場の空気を壊すような創作をしたのか考えていた。
「いま、あなたに習って理論的であることになってみるけど」彼女は小首をかしげて彼に尋ねた。
「あなたはいつも悲しげね、でもどうして? 私たちは同じ年に生まれた、だから背負うものは同じくあるのは確かよ。重荷になって前に進めないときがあるのは私もそう」
「悲しくさせてすまなかった」隼人はゆっくり声に出した。
「ありのままでいようと思ったらいつの間にか、ああなってたんだ。なぜ僕は」
「考え込まないで。なにかあったの?」
「あったけど、せっかくのこの席で話すことはできない」
「私との時間を大切にしてくれるのね。ありがとう」
バーでは、ジャズからイージーリスニングに変わっていた。とても、ゆったりできる空間になっていた。
「ありがとう。僕のことを聞いてくれるんだね。でもやっぱり、それは今度にしよう。いまは、今の時間を大切にしよう。君の言う通りだよ」
「明日のひよこより今の卵、ね」
「ずいぶんかわいい文言だね。いまを大事に、ってことかい?」
「そう、フランスの学医者ラブレーの言葉よ。『ガルガンチュアとパンタグリュエル』での一説から」
「大事な言葉だ。1985年に生まれた僕らにとっては。特に」
それから彼らは慎ましくワインを飲み合いパンを食べ合い、ひと瓶開けてバーをあとにした。新しい波は、進んでいったのだ。
「素敵ですね。牧神パーンのお話しよりこっちのほうがずっといい話だと思いました」
真木は、感想を述べる。「それにしても、その頃から創作はお好きだったのですか?」
「はい。とても大事なことだとすごく思っています。最初の頃は、心やすい趣味に過ぎませんでしたが、回数を重ねるごとに次第に創作への思いが変わってきました」
「1985年に生まれたからですか?」
「はい。そう考えるからです」
隼人は目をキリっとさせ、答えた。
ヌーヴェル・ヴァーグでの夜からしばらく経った日のこと。隼人の頭のなかに、ふたりの女性の名前が絡みつき始めた。創作は、いっそう色濃くなり始めたのだった。