空が全ての始まりだった。心を痛めた時に、私はよく空をみていたものだ。夏の日の入道雲。月が浮かぶ夜空。空は、いつでも私の相談相手だった。あの頃、私は友が少なく孤独だった。ガラス越しに月の映える夜空を見ては、毎日のように枕を濡らしたり、死んでしまったりすることばかりを考えていた。私が思い出すことのできる最初の記憶は、夕焼け空に映える赤、だった。
あの日、夕焼け空の下で、私は泣いていた。母が、私のおもちゃをゴミ箱に捨てるところを目の当たりにしたからだ。それからは、夕焼け空は私のトラウマだった。いつとも終わらない日没の日々。人生が始まったばかりだというのに、私の心は、死に没していた…。幼き日々はもう終わって久しいが、私は空に希望を持つことができなかった。空は私のなぐさみものだったのかもしれない。
全ての思い出は空に返して。私は新しい道へ入った。高等学校に入学し、私の空に対する思いは一変した。というのも、一人の女性に恋い焦がれたからだ。彼女は、天からの使いのような美しさに富んでいた。まるで夕焼け空に燃えるような赤、強烈な刺激だった。彼女の名前は、アンセーヌといった。初恋にしては…いや、初恋だからこそ、情熱があり、そして性的な思いがあった。普通の高校生がするような行為をした。しかし私はあくまで好意で行為をしていた。言葉遊びではない。私は自分の慰めかたを学んだ。アンセーヌを思い、何度も彼女を強く抱く妄想をかきたてていた。しかし、悲劇はまたもややって来た。あまりにも美しいアンセーヌは、その美貌ゆえに、悪い虫に犯された。私は悪い虫を憎んだ。悪い虫は、何も知らぬ顔で淡々と生きていた。私は自分を抑えきれなかった。何度も滂沱した。アンセーヌを失い、私は生きるすべもなくした。生きるとはどういうことか、分からなくなった。
ある夜のこと。生きているのだか死んでいるのだか分からない夢のはざまで、声が聞こえた。
「実に虚しい」
あまりにも明瞭な声に聞こえたので、私ははたと起きた。だれだ?私は思った。ひょっとして悪い虫か、とも考えた。
「君は、悪い虫に食べられた夢をみている」
ああ、確かにそうかもしれない。
「ヨーク公のことを知っているかね?」
いきなりの問いに、私は錯綜した。ヨーク公?
「ああ、そうだ。全てを照らす、ヨーク公リチャード」
なんだ?世界史の勉強なんて、まっぴらだ。
「世界史なんて、暗記すればいいと思っているのか?ヒトの歴史、世界は、暗記でどうかできるものじゃない」
何を言っているんだ…?
「そう思うことだろう。君は一度、死んだほうがいいな」
どういう意味だ…。
「そのままの意味さ。君はやり直すことができる」
やり直す…?何をだ?
「『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』。覚えておくといい。暗記はしようとはするなよ」
私は今度こそ目を覚ました。あの声の主はだれなのだろう?そう思った。「ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった」心のなかで呟いた。確かな、記憶だった。翌日、高等学校で世界史の先生に私は尋ねた。「『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』?それは、物理の先生に聞いてみなさい」なぜ、物理?つながりが分からなかった。
私のなかのアンセーヌは、まだ生きている。あの美しい髪。ポニーテールがよく似合うひとだ。席替えで隣の席になったことがあった。
試験中、彼女は物腰柔らかに「Σ」を書いた。この頃から、関数の級数展開を知っていて…。なんて美しいシグマなんだろう。そう思った。私はそういった彼女のところも大好きだった。倫理の試験中に、余った時間と空白部分を使って、彼女が解きほぐした数式をチラ見したことがある。本当にチラッとだった。こんな感じに。アンセーヌの風は、いまでも私のなかで吹いている。私は、確かに恋をした。雨のような涙が出てきてたまらない。私は、確かに彼女に、恋をしたのだ。その恋が、私のなかで唯一の青春の思い出だった。ありがとうアンセーヌ。ぼくはしあわせだった…。
私は、高校卒業後、イムペリアル大学に志望した。専攻は宇宙物理だった。あの声のひと…。「ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった」と言ったあのひとに導かれたように「そう」なった。世界史の先生ではなく物理の先生が教えてくれた、その言葉の意味は、ずっと私の心をとらえ離さない。私の「空」に対する気持ちは一変した。
“空はどうして青いのだろう?”アンセーヌのことをしまい、心に余裕ができた時にふと頭をよぎった疑問だった。それを機に、私は空に恋い焦がれていった。澄みきった空、空気は無色透明で、その集まりであるはずの空がどうして青いのか。そう思った。成人に近づいていくほど、その「どうして」という気持ちが強まっていった。あの日の思い出も私はいつの間にか克服していた。ただただ夕焼け空は「どうして」赤いのか?私は「それよりも高い空」への関心も高まった。つまり、宇宙への興味を持ったのだ。宙が全ての始まりだった。私は宙を畏怖していた。イムペリアル大学は、宙へ興味を持つ者の探究心を促進して招き入れた。学問に、傾倒した。そして、入学試験に失敗した。合格できなかった。志望は失望へと変わり、再び空は私にとってのトラウマとなった。失意のどん底で、暗黒の、色のない世界を彷徨っていた。私は独りで、辛い想いをしなければならなかった。そう、「しなければなかった」のである。
親の庇護から離れ、社会へ追い出された私は、土木工事のアルバイトをして、なんとか生計を立てていた。激しく体力を消費する仕事だった。それも、色々な意味で。当時の最高階級の学部は、宇宙物理だった。最低階級の学部は、土木だった。ある日、私を雇っていたひとと酒を飲み交わしてた時のことだった。
「最低でも良いから、もう一度、夢を叶えてみせろ。俺も頑張るから」
それが、一番の友だちからの励ましだった。私は、もう一度立ち上がった。最低でもいい。とにかく目指す気持ちを持っていれば、必ず達成できる。そう信じ、私はイムペリアル大学理工学部土木科に進んだ。そこで出会ったのは、「流」だった。流(「ながれ」、と呼ぶらしい)は、私の大学でできた友人だった。流は言った。
「それで、君の疑問は解けたのかい」
「ああ、高校時代に言われたあの言葉か」
あの言葉…。
『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』。
幸いなことに、私の高等学校の物理の先生は博識だった。
「サルーイン君、それを英語にしてみてごらんよ」
「英語に…ですか」
「そう。君は色々な言語に精通しているだろう」
「…まあ、自信はないですけどね。
“Richard Of York Gave Battle In Vain。”
これで合っていますか?」
「そう。それで頭文字をとる」
「頭文字ですか?ええっと…
R O Y G B I V 、ですね」
流は答える。「ああ、なるほど可視光の覚え方か」
「そうだ。
R O Y G B I V。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、だ。
「いま僕たちが学んでいるもの、そのものだろう」
数学好きの流は得意げに言った。土木科に電磁気学は必須科目ではなかった。しかし、「空の青い理由」の説明には必須だったのだ。
「空がどうして青いのか?」
この問に答えるためには、長い時間がかかった。
「レイリー散乱」、「ミー散乱」。
これは覚えた方がよいと、流は話した。