雲塞レッド・サイクロンに乗り組んだ私とスカーレットは、宙を越え、真実を確かめようとしている。ラプラスは、正しかった。あの声…。「真の敵はエデン」だって?
「ああそうさ!俺たちは宇宙でおまえを待っている!」妖精さんの声のように聞こえた。レッド・サイクロンは、雲塞だった。青白い扉の向こうには、旅客飛行機の操縦席のようなものがあっただけだった。
ところどころに赤いタッチパネルが犇めき合っていた。私はレッド・サイクロンとはなにかの組織だと思ってきたが、どうやらそれは違うようだ。結局、ここは何をどうするところなのか?それを今一度はっきりさせるべきだ。この要塞は、不思議なところが見受けられる。
「ドラえもん・のび太と雲の王国」を思い出した。素晴らしい映画だと私は思う。ドラえもんが二度故障するシーンには号泣した。ノア計画には、驚いたものだ。父と一緒に観に行った、最初で最後の映画だった。大人が観ても、そのシナリオは驚かされる。主題歌「雲が行くのは」は、今でも心のなかにずっしりと残っている。
小学校二年の時に観たのは、「雲かためガス」で固められた雲の上に王国を作る物語だった。レッド・サイクロンも同じようにできているかと思った。とすれば、かの映画の「雲かためガス」に相当するものはなんだろう?操縦席に身を預け、気象学者の私は考えた。雲にもいろいろな種類がある。
「雲形十種」を覚えることは、気象を知る上で一番基本的なことだ。
雲塞レッド・サイクロンは、積乱雲のような形をしている。なかにはなにかの施設があると思ったが、青白い扉がただあって、操縦席があるだけだった。
「雲を、運転するのか…?」そう呟いた。赤いタッチパネルのひとつを押してみた。すると…。
「きゃ」スカーレットは声を出すくらい驚いたようだった。
「宇宙物理もいいけどさ」私は悟り、言った。
「雲物理学も楽しいものだよ。実学も役に立たなくては」
「そうね、そう思うわ」
「それで君はレッド・サイクロンについてなにか知ったんだろう?」
自然神エデンと、レッド・サイクロンの目的は一体何だろうか。
スカーレットにそのまま訊いた。「彼らの目的はひとつ―――。―――地球の「振り子」に調和を…振り幅を全て揃えようとしていること」
自然界にはあらゆる振動がある。気象で言えばエルニーニョ現象がそうだ。エルニーニョとラニーニャは東西に一定の周期で振動している。南米の太平洋側で海水温が高くなれば、インドネシア付近の海水温が低くなる。南米太平洋側の海水温が低くなれば、インドネシア付近の海水温が高くなる。まるで、温度の高い領域が東西に振り子のように行き来しているのだ。インドネシア付近の海水温が高くなったり低くなったりすると、日本の天気が大きく影響される。スーパー台風ができるのがその一例だ。振動するのは、海水温域だけではない。水蒸気を多く含む雲が、一定の周期で赤道上を走っている。この振動を「マッデン・ジュリアン振動」という。懸念されるのは、そうした振動が共鳴した時のこと。共鳴してしまうと、振り幅が大きくなり、より強い振動を、つまり、影響を更に強めることになる。スカーレットの言っていることは、そういうことだ。なにも天気だけじゃない。地震という振動さえも、共鳴させようとしている。
「地球にある全ての振動現象を揃えること」これが自然神エデンのする役目だと言う。それを助長しようとするのが、【レッド・サイクロン】の目的だと言う。「【レッド・サイクロン】は、共鳴を、とても大きい共鳴を、起こそうとしているわ。『彼ら』は、とても大きい共鳴のことを、”エデンのひとふり”と呼んだの」
エデンのひとふり。その大共鳴が起これば、この星が大きな振動を起こして、大地は裂け、風は耳を壊し、水はあっという間に洪水となる。そんなことはあってはならない。妖精さんの声に従うと、エデンが倒すべき相手であり、彼ら(?)はどうやら宇宙にいるらしい。私たちは彼らのところへ行く。エデンは宇宙で、何をしているのか?私たちは真相を探る。実際に行ってみないと分からないものだらけだ。
さあ、エデンと対峙しよう。第一宇宙速度を突破した。私はエンジンにブーストをかけるべく、操縦機のトリガーを引いた。「それで、流を支配していたラプラスのほうは、どこにいるんだ?」
混沌の悪魔、ラプラス。ラプラスの言うことは正しかった。
「ラプラスは、全てを乱そうとしているわ。振り子を乱そうとしている。地球の数ある振り子をバラバラにしようとする内に、自分自身を乱してしまった。エデンとラプラスがいるのは、未来よ」
未来…?私は呆気にとられた。雲塞レッドサイクロンは、時空を超えるための乗り物ではない。未来にゆくのか…?
「私とあなたなら、未来に行くことができる」
「未来へ行くには、独りではいけない?」
「私は宇宙物理を専攻していたのよ。星間飛行なら、お手のもと。私たちふたりだけの星がひとつあるの」
スカーレットは唐突に言った。
「ふたりだけの星?」私は言った。
「そう。そこにエデンとラプラスを封じ込める」
「封じ込めて、どうするんだ?」
「そのままブラックホールへ」
よくある話だ。そう思った。
「でも、この雲塞でどう時空を?」
「光を越えるには、あらゆる質量をそぎ落とさなければならない」
スカーレットも、科学を学んでいたのだ。
「私たちはいま!光の流れを超える!
そしてあなたは、ふたりだけの星へ彼らを追放するのよ!」
待ってくれ!
君の質量をなくすのか?
「君を犠牲にしてまで、彼らを封じることは出来ない!」
もうスカーレットは、光の流れを超えるトリガーを引いた後だった。
「ぼくが犠牲になればいい」
「じゃあ、私は誰を愛すればいいの…!」
「【コスモポリタン】だよ。意味は地球市民。君は地球を守る女神になるんだ。君を含めたコスモポリタンが…。みんなが幸せになれれば、ぼくの死なんて瑣末なことに過ぎない」
私は、スカーレットが座っている助手席を宇宙空間に脱出ポッドとして放った。目標はもちろん地球だ。スカーレットの泣く声が聞こえる気がする。
ごめんよ、スカーレット。君はこれから、地球市民として、強く生きるんだ…。ずうっとずうっと愛しているよ。彼女のなかに放った、私の最後の声だった。程なくして、光の流れを超えた。だが、未来など、存在はしない。時の流れの方程式までは分からないけど。流れ始めたら、もう誰にも止められない…。ぼくにできることは、彼らを連れ、ふたりだけの星で彼らとともに最期を迎えることだ。ありがとう、とても美しい夢だったよ…。
混沌の向こうに、真実がある。エントロピーは増大しつつあった。かつての偉大な物理学者アインシュタインは、
熱力学の達人であったという。熱力学は、素晴らしく理論だてられた学問だ。アインシュタインは熱力学の何を愛したのか?矛盾なき、整然とした、どんな座標系を採用しても必ず成り立つ理論だからか?
古代から「熱とは何か」という議論が為されてきた。電気の粒が流れて電流としてあるように、熱もなにかの粒が流れている現象なのか?
かつてのひとびとは、その熱の粒のことを「熱素」と呼んだ。しかしいま現在ではこう結論づけられている。
熱はエネルギーの一種で、系の【温度差】を平衡状態に持っていくために発生するものとして捉えられている。そこには、【自分自身】と、【他のもの】が必要だった。自分と他がいて、熱は発生している。つまり、【温度差】が必要なのだ。他とは違っていても、自然界は平衡に、互いを同じように持っていこうとする。
アインシュタインは、もしかするとそういうものを愛していたのかもしれない。私たちが時を刻む、いまここの瞬間でも、混沌が増大している。いまより煩雑さが増している。煩雑していくもの。それが「未来」の定義だと私は強く思っている。アインシュタインは歌う。万物の理論を。温度差、つまり【自分】と、【他のひと】がいて、この世界が成り立っている。
… … …
ドップラー効果により、遠ざかっている星は赤く見え、近づいている星は青く見える。前者を【赤方偏移】という。宇宙物理の常識だ。私は宇宙の彼方から青く見えているはずだ。故郷に、母なる星に、地球へ向かうトリガーを引いたのだから。
熱帯低気圧は、はるか彼方に遠ざかってゆく。代わりに、自分の座る操縦席を脱出ポッドは宇宙空間に脱し、その反動で地球へ向かう。
赤い熱帯低気圧が、青い月になった瞬間だった。君のなかの私は、どう映っているんだろう?光を超え、のどが焼けた私は、君になにをすればいい?操縦席のとなりに置かれたテーブルに、ウィスキーが置いてあった。コトコトと音を立て、いまにも倒れそうだ。見ていられない。私は40度越えのウィスキーを飲み干した。
のどが焼けるように痛みが走る。そうか。のどなしになる対価には、それだけで充分なんだ。光速へ近づくからのどが焼けるのではない。最期さえも超える、ひとの美徳こそが、世界を救うのだ。美は死をも超える。記憶は流れゆく…。のどなしの私に、君へ、そしてコスモポリタンへできることは―――。