私が望む、本当に気が休まるときというものは来ないと思う。
私は雑音が苦手だ。不意に起こる大きな音はもっと苦手だ。精神的にくるものがあって、集中力が途端に切れるのが許せないんだと思う。しかし、世の中は雑音だらけだとも思う。いったい私は、いつ、どういう時に集中ができるんだろう。静寂に身を任せるのが怖いのだ。集中力は高まるが、「いつこの美しい時は終わってしまうのだろう」とたまに思う。いつかのテレビでみた、西洋では美なるものは永遠と考えられ、日本では美なるものは儚いと。私は日本の考えのほうに賛成する。
小さい頃、家にいても真に心が休まることはなかった。家族の話になってしまうが、親に起因するものだ。真に心が休まること…というのは一体どういうことだろう? 私は考えた。常に忙しくされる。それが、とても嫌だった。私は常にストレスが加えられ続けていた。家にいても、私は家にいなかった。家とは何だろう。
学生の頃に受けたカウンセリングの冒頭部で、「私は将来、ストレスが原因で死ぬと思います」と正直に言ったら、カウンセラーに泣かれてしまった。泣きたいのはこっちだった。
生きるということはどういうことだろう。
楽しみを持つなどの工夫はした。生涯、学ぶことに集中するということも誓った。しかし、私の人生に雑音がやって来るのは、周期的なのかもしれない。それは、なにかに所属した2年目にやってくるのではいないか。これは私、蒼き流れ自身が統計的に導き出した仮説である。私は、そんな雑音が嫌いだ。私の人生をめちゃくちゃにする雑音。
「生きるということが雑音ばかりなら、私はもうこの世にはいないだろう」。さきほどのカウンセラーにいつかそう言ったような気がする、記憶は定かではないが。近年、雑音を定量的に扱いたいと考えたことがあって、音響学を学びたいと思うことがあった。やはり私は学問的な人間なのだ。音響学をやるには、フーリエ解析を身につていなければならない。とてつもない、広大な解析学の分野が私の眼前に広がっていた。私はその世界にダイビングしたかった。
予期しない音を拾うのが全てではない?
生きることは雑音を聞くことなら…。
私はやはり静寂に身をゆだねるよ。