
2.砂漠の影-前編
強く、そして煽るような、ゴラージュ砂漠の砂嵐に六回遭って、遭いましたが、それでもシュシュポッセは負けませんでした。フードを目深にかぶり、額に手を添え、地図もなくどこを歩いているかも分からないままでしたが、シュシュポッセはそれでも歩き続けました。ロステンバウムの案内人の話を信じて。
「砂漠には、オアシスの街がある」
やがて、シュシュポッセはオアシスの街、ゴルドクーンへたどり着きます。そこは、荒涼とした砂漠とは別世界でした。背の高いヤシの木がところどころに背を伸ばしているし、池が数か所ある。そして、中心部から少し離れたところには…、なんでしょう、とても大きな建物が数軒連なっています。
シュシュポッセは砂をあらかた払った後、ゴルドクーンの案内人に話しかけます。
「遠い森のロステンバウムからアクセサリを売りに来ました」
案内人は言いました、「旅人さん、よく来たねえ。ここはゴルドクーン、商人の街だよ」
シュシュポッセは理解していたのです、ここオアシスの街では、物々交換が成立しない旅人は煙たがられることを。水も食料も貴重で、価値が明確でなければ取引にはなりません。ゴルドクーンは、珍しいものに価値を見出す街でした、だから、森の街で作られたアクセサリは、砂漠の民にとっては充分珍しいのです。
案内人は声を潜めて言いました。
「ゴラージュの嵐はきつかったろうに。ここ数十年前からのことだ、まるで砂漠そのものが起こっているみたいでね。気をつけなよ」
シュシュポッセは胸のざわつきを覚えながらも、ゴルドクーンへ入っていきました。
そのときです。
シュシュポッセがオアシスの街の門を通り過ぎるや否いや、すばしっこい人影が割り込んできました。彼女は一瞬身構えましたが、すぐにその必要がないことに気付いたのです。人影はシュシュポッセの目の前に立つと、深い礼をして、とびっきりの笑顔で言いました。
「そのアクセサリ、私の家の絨毯と交換して下さらない?」
少女――いや、少女というより、「商人の卵」と呼ぶのがふさわしい。歳はシュシュポッセよりかなり下だが、しかし目の輝きは、商人のそれ。
砂漠の民特有の薄い布を頭に巻き、腰には小さな帳簿と計算用の石。歩くたびにじゃらりと鳴りそうな小さな金属片。
案内人は言います。
「おいおいダブリン。旅人さんに飛びつくんじゃないよ、このお方は砂嵐に何回も遭ったって言ったじゃないか」
ダブリンは、案内人の言葉を気にせず、太陽のように明るく笑います。そして、言いました。
「だって珍しいじゃない! 森の街のアクセサリだなんて。この街じゃ滅多に見られないわ。価値があるものには、価値のあるもので返すのが商人の礼儀でしょう?」
シュシュポッセは、ダブリンと同じくらいの笑顔で返します。
「あら嬉しいわ。私のアクセサリを見ていただけるなんて」 そう言いながら、シュシュポッセは、ダブリンに『糸』を見出していました。
この子、目利きの才があるわ、まだ若いけれど、糸の伸び方がとても素直ね。
それから流れるようにシュシュポッセはダブリンの家に招かれました。ダブリンの家族は、街の大きな絨毯工房を営み、その規模は大きい。厚い布で覆われた入口。砂を避けるための低い天井。壁には色鮮やかな糸が吊るされ、床には編みかけの絨毯がいくつも広がっていました。シュシュポッセは息をのみました。なぜなら、旅をして、こんなに「糸」を扱う同業者に会えたのですから。そこには生活のための技術があり、彼女には未来を飾る魔法がありました。でも、基本は同じ。「ひとのために、私は作る」のです。
「いらっしゃい、ダブリンが珍しいお客さんを連れてきたわね」
出迎えたのは、ダブリンのお母さん。
「ごめんなさいね、家でゆっくりあなたの話を聴きたいのだけれど。今の時間は忙しくて。せわしない工房で客人をもてなすしか」
シュシュポッセは返します。
「気になさらないでください。私も、あなたがたの話を聴きたいのです」
工房には、糸のにおい、手仕事の音、家族で技術を受け継ぐ姿、砂漠の民が糸に込める祈りが満ち溢れていました。
ダブリン家の工房は、色とりどりの糸と絨毯が並んでいます。しかし、その一角だけ空気が違いました。
黒い糸が束ねられ、まるで影が固まったような質感を放っています。シュシュポッセは一度をそこに目をやり、その視線に気づいたダブリンは言います。
「父さん、最近ずっとあの黒い糸ばかり触っているの。『黒ヤギの影縫い』っていう新しい技術なんだって」
ダブリンのお母さんも続けて言います。
「あれはね…、数か月前に旅の商人が教えてくれたの。『黒ヤギの毛を使うと、影を縫いとめる力が宿る』って。最初はただの迷信だと思っていたんだけど、うちのひと、あれに夢中になってしまってね…」
ダブリンの眉毛が落ちました。彼女は言います。
「父さん、部屋からあんまり出てこないんだ。ご飯もほとんど食べないし、なんだか、笑わなくなった」
「あのひと、昔は良く笑うひとだったのに…。影縫いを始めてから、まるで別人みたい」
シュシュポッセは、よく通る声で言いました。同業者としての、あるいは職人の声で言いました。
「その技術で作ったものはあるかしら」
ダブリンは一瞬ためらいましたが、工房の奥を指さします。
「…あるよ。父さんが最初に作った『影縫いの絨毯』。でもあれ、なんだか怖いの」
ダブリンのお母さんは、彼女を抱き寄せて話します。
「あの絨毯を見てから、家の中の空気が重くなった気がするのよ」
シュシュポッセは影縫いのの絨毯を見るなり言います。
「二人とも、気をつけて。これは禁忌の技術。私には分かる」
ダブリンは肩を震わせます。
「き、禁忌? そんな、父さんの技術が…?」
ダブリンのお母さんはため息をついて言いました。
「やっぱり、うちのひと、あれに憑りつかれていたのね」
三人は、ただならぬ恐怖を感じ始めます。
「おいおい旅のお方。ずいぶん酷い言いようじゃないか」
工房の奥から、低く乾いた声が響きました。ダブリンのお父さんの声でした。やせた頬、乾いた唇、しかし、眼差しだけが異様に冴えているように感じます。彼は、ゆっくりと三人へ歩み寄ります。
「それは私たち家族が幸せに生きていくためのものなんだ」
そして、目線をシュシュポッセに定め、更に言います。
「旅人さんの技術は認める。その手を見れば一目瞭然だ」
シュシュポッセは、ほぼ同時に思いました。
「彼は技術を見ているのではないわ。私の『糸をみる力』を見抜いている」
ダブリンのお父さんは、残りの影縫いの生地を持っていってしまいました。ダブリンは震える声で呟きます。
「父さん、なんだか前と違うよ…」
お母さんは、唇をかみます。
「あの『黒ヤギの影縫い』を始めてから、あのひとは、影を縫いとめるどころか、影に縫われてしまったかもしれないわ。私たち家族も、変わってしまった…」
シュシュポッセも負けてはいられません。彼女も、ダブリンのお父さんの手を見たとき、彼のことを見抜いたのでした。
長年の職人がもつ、静かな呼吸。
糸を扱う者特有の、柔らかい指先。
影に染まった者にはない、純粋な技術の光。
「このひとは影に染まったのではない。影を渡されたのだ」
シュシュポッセは、母子の気持ちを受け止め、ダブリンに優しく言いました。
「あとで宿屋に来て。あなたのために、ひとつ編みたいものがあるの」
夜。
ゴルドクーンの街の宿屋の一室にて、シュシュポッセは静かに編んでいました。
「あの子の…ダブリンの『糸』は、金色の未来が宿っているわ。鋭い目利き、でも未熟なところが、揺らぎやすい。だからこそ、彼女に必要なのは『勇気』と『真実を見抜く力』」
宿屋の窓からは、月光からあふれる銀色の光が差し込んでいました。その光を浴び、シュシュポッセは力を込め、ダブリンのためのシュシュを編んでいたのです。
ダブリンが来たようです。
シュシュポッセは、シュシュを差し出し、言いました。
「これは、あなたのためのもの。あなたお父さんに渡された影と立ち向かうための力よ」
ダブリンは、震える手でシュシュを受け取り、深く息を吸って言いました。
「私、やるわ。父さんを助けたい。影を追い払いたい」
シュシュポッセは彼女の肩に手をやり、微笑みます。
「あなたならできる。このシュシュがそう言ってる」