
2.砂漠の影-後編
ダブリンとシュシュポッセは、砂漠の風が吹き抜けるゴルドクーンの街を歩きます。市場の喧騒、水を求める旅人たち、絨毯を広げる商人たち。シュシュポッセはそのなかに僅かな影を感じ取っていたのでした。
砂の上に、一瞬だけ走った黒い糸。
彼女は呟きます。
「危ない予感がする…」
そして、立ち止まり、感じます。森で影と対峙したときと同じような、けれど違う、広い世界の影の気配。胸の奥が冷たくなる、影を追う旅人として初めて味わう恐怖でした。
ダブリンは、シュシュポッセの手をそっとつかみます。その手は小さいけれど、砂漠の太陽のように温かい。
「父さん、この街じゃ有名なひとでね。絨毯と言ったらダブリン家って言われてたの。私たち家族もみんな誇りを持ってた。私は…そういう家族に守られてきたんだわ。これから私は強くならなきゃいけない。父さんを助けるために。影に負けないために。シュシュポッセの作ってくれたシュシュ、大事にするね。何物にも交換できない、私の宝物なの」
ダブリンの勇気に触れたシュシュポッセは、静かに頷き、言います。
「ありがとう、ダブリン。あなたと一緒なら、影の正体に辿り着ける気がするわ」
ふたりは、ゴルドクーンの街を歩き、「影」の情報を集めていました。そして見つけたのです、「ゴルドクーンの闇市に影の手がかりあり」と。
闇市は、昼の喧騒とは全く違う空気をまとっていました。影が濃く、最小限の灯り。声を潜める商人たち。どこかから聞こえる獣の鳴き声。
突然でした、背後から男の低い声が響きます。
「そこの娘さん方。ここいらでは、あんたたちのことは有名だぜ」
男は背は高く、砂漠の夜のように黒い外套をまとっていました。片目には古い傷。もう片方の目は、異様に澄んでいます。闇を歩き慣れた足取りで、ふたりに近づいてきます。
「俺のことを嗅ぎまわっているらしいじゃないか。あんたらなら、俺の名はご存知なんだろう? そうだ、俺は『ガルフ』だ」
更にガルフは薄く笑って、言いました。
「そこの…シュシュ作りの女。あんたに、俺の更なる情報を教えてやる。来な」
シュシュポッセは、下唇をかみ、ガルフの言葉に従います。一方のガルフは、彼女の足が前に歩き始めたのを待っていたかのようでした。
「『黒ヤギの影縫い』。あんた、飾りをつくる女だろう? どうだ、買わないか、この情報を」
砂漠の底から響くような、冷たさを帯びた声でした。そして、彼は懐から取り出します。
それは、黒い布に包まれた、シュシュだったのです!
「それにこんなのもあるぜ。『ロステンバウムのアクセサリ』。…あんたの作ったものは分かってんだよ…」
シュシュポッセは息をのみました。
私はダブリンのシュシュを作っただけなのに…どうして…
彼女の後ろからついてきたダブリンは、ガルフの顔を認めた後に、気付きました。決定的な気づきでした。
「ゴルドクーンの案内人は…ガルフだったのね」
ガルフは薄く笑いました。
「砂漠じゃな、姿を変えるのは生きるための知恵だ。あんたたちが俺を探す前に、俺のほうがあんたたちを見つけていたってわけだ」
シュシュポッセは、確信します。
―――この男、影を知っている。いや、影そのもの―――
彼女の、驚くほど冷たくなった手を、ダブリンは握ります。そして、恐怖を押し殺しながらガルフに問います。
「ガルフ。あなた、何を知っているの?」
ガルフは、更に薄く笑い言います。
「ハハハ…いいぞ…ここからの情報は高くつく。さすが、絨毯づくりの娘さんってわけだな…?」
彼は、少し厳しい顔をして、ゆっくり話し出しました。
「砂漠には砂嵐があるのを知っているか? そうだ、とても強い砂嵐さ。俺は…商人のとき、『蟻地獄』に堕ちた…、そして出会ったのさ、紫の影をな」
シュシュポッセは胸が痛くなるようでした。あの森で自分のことを「忌々しい飾りを作る女」と呼んだ影。あの冷たい声。あの、紫の揺らぎ。
「ガルフ、その蟻地獄のこと、もっと教えて」
ダブリンは、勇気に乗っていました。彼女は、いま、とても冷静です。その冷静さは、シュシュポッセにとっての勇気そのものでした。
ガルフは、彼女たちの勢いに少し押されたのか、静かに真実を…、語りだしました。
「紫の影は言ったんだ。
『おお、儚き者よ。可能性に乏しい者よ。
我に命を与えよ、さすれば永久の可能性をお前に与えん。
永遠の商才を、おまえが渇望した商人の心得を与えよう。
お前はいまから…謎の商人だ。持って行くがよい、影縫いの技術を…』。
おい、あんたら。俺がなぜ闇市を仕切っているのか分かるか? ずばり、『永遠の可能性』を得たからさ!」
シュシュポッセは、ざわりと肌が逆立ちました。それと同時に、さきほどから異様に、自身を冷たくさせている理由が分かったのです。ダブリンはと言うと、胸を押さえ、うずくまりました。シュシュポッセは、今度は彼女に言葉をかけます。
「大丈夫、あなたの糸は強い。影に負けないで」
ガルフは高らかに笑い、続けます。
「影の商人の力を得た俺は、紫の影…ヴィタポッセ様の眷属になったのだ。影は各地にいるという。彼らは、自然を壊し、意のままに操ることでこの星を支配しようとしている。だが、そんなことは俺にはどうでもいい。俺は、このゴルドクーンを支配してやる! 全てを売って、全てを買うのだ!」
…と、ガルフはこう言うと、ぱたり、と砂の上に倒れこんでしまいました。ガルフの背後には、「彼」が静かに立っていました。
「ダブリン、どうしておまえがここにいる…?」
「父さん…?」
ダブリンは気付きました。そして彼は、続けます。
「ここは闇市だ。おまえの来るべきところではない」
ダブリンは青ざめ、彼女のお父さんは自身の手を見て、話します。
「いま聞いたと思うが…、父さんもヴィタポッセの眷属になってしまったよ。父さんは…、技術に魅せられたばかり、職人としての大切なものを忘れてしまったらしい…闇に染まってしまったんだ。しかし父さんにできることは、ゴルドクーンの元凶たるガルフをこの手で斃すこと。見てごらん、父さんの手には闇の針でいっぱいだ。これで…ガルフを討ったのだ…、商売道具でな。実に愚かな使い方さ…。ダブリン、こうはなるなよ…」
ダブリンの目には、涙がいっぱいでした。
「…一度眷属になると、斃れるまで影に染まったままだ…。私は…愛する妻に、愛する娘のために…いまいっとき、目覚めたのだ。でも、遅すぎたようだね…」
彼は、シュシュポッセのほうを向くと、言いました。
「…シュシュポッセ様。どうか私の娘、ダブリンをよろしくお願いします…」
彼は、そう言うと、影に溶けるように、闇のなかへ消えていきました。
「ダブリン、あなたのお父さんは、最後の瞬間まであなたを守ったのよ」
シュシュポッセは、震えるダブリンの肩にそっと手を置き、静かに続けます。
「辛いかもしれないけれど、あなたのお父さんのことを調べるわ」
彼女は膝をつき、遺体に触れず、しかし丁寧に「糸」を探りました。
命の糸は既に断たれ、影が絡みつき、まるで空っぽになっている。
そして、一枚の紙をみつけます。北方の湖の街、リンクスの地図でした。ダブリンはというと、震える手で父の遺体に触れようとして、しかし触れられずに涙をこぼします。シュシュポッセは彼女の手をそっと包み、一緒に弔うことをすすめます。
弔いの後、シュシュポッセはダブリンの髪に結ばれたシュシュにそっと触れます。
「ダブリン、あなたは影に染まらないでね。私は、あなたのシュシュとして、いつまでも見守っているわ」
「うん、私、負けない。父さんのためにも…」
しばしの沈黙の後、シュシュポッセは旅を新たに、彼女に背を向け、静かに歩いていきました。次なる街・リンクスを目指して…。