
3.湖底の真実-前編
砂漠から北方への旅は、そんなに簡単なものではありませんでした。砂漠は狂おしいほどの温度差があります。昼の燦燦たる日差し。夜の冷たい生気のない冷気。一方、北方は年中、簡単にひとの心を凍らせる。それはまるで、永遠の美を象徴している、そして静かな絶望を旅人に与える、二つの顔があるかのようです。
ここ、リンクスも例外ではありませんでした。やっとの思いでたどり着いたシュシュポッセは、早くもこの静かな街の特徴を捉えます。
「みんな、『糸』がない…」
湖の街、リンクス。
けれどその実態は、シュシュポッセの想像していたものとかけ離れています。湖は干上がりひび割れた大地が広がり、かつて水鳥が舞った場所には風だけが通り抜け、湖畔の家々はまるで色を失ったようです。さらに特筆すべきは、リンクスの街の「ひと」たちでした。
歩いてはいる。
話してはいる。
しかし、どの顔にも「生きている気配」がない―――
そこには、生きている気力が感じられません。
シュシュポッセは早くに「影」を感じ取りました。
彼女は、干上がった湖を一度大きく眺めてみました。湖底はむき出していて、そしてなによりも青で透き通っている。かつて、水に沈んでいたはずの集落が姿を現わしていたのです。水は消え、集落はむき出しのまま、乾いた風にさらされている。それはまるで、ずっと、ずっとずっと調査さえされない独りの古代遺跡のようでした。シュシュポッセは、胸の奥がひやりと冷えるのを感じます。
湖底を進むと、集落のなかにひときわ大きい建物があるのを見つけます。どうやら集落の…村の集会場だった建物のようです。扉は壊れ、中は薄暗くて外からは確認できません。風が吹くたびに古い木材が軋んでいます。シュシュポッセは、そっと中に入りました。
シュシュポッセは、息をのみました。
建物のなかの一角に、老人がいたのです。薄暗い室内の奥で、一人の老人がロッキングチェアに座り、ゆっくりと揺れながら本を読んでいました。この、死に絶えたリンクスにただ一人、生気を感じる存在。シュシュポッセは、安堵と緊張を同時に覚えました。
老人は本を閉じ、顔を上げます。その瞳は、湖の底のように深い。そして、シュシュポッセにこう言いました。
「娘さん。あなたはひとではないな」
シュシュポッセは胸が痛みました。それは、紫の影に言われたときに感じた痛みではありません。どこか、なにか自分の「核」を突かれたような痛みでした。彼女は思いました。
…この老人は、ただの村人ではない。
ロッキングチェアは、湖底の静寂に合わせるように、ぎい、ぎいとゆっくり揺れています。老人は続けました。
「娘さんは…、そう、編む力をお持ちのようだ。だが…糸を紡いでなんとする? 可能性というのは、一つ間違えば身を亡ぼす。希望とは未来とはまた違う道をな…」
シュシュポッセは、黙って老人の話を聴いていました。
「わしには孫がおる。ここファガ・リンクスの塩を遣う料理人だ。だいぶ昔に…この老いぼれより先に逝ってしまったがの」
ロッキングチェアは、まるで湖の波の名残のように、ぎい…ぎい、と静かに揺れています。変わらない音でした。老人は、遠い過去を手繰るように語り続けます。
「孫には婚約者がおった。採掘を生業とする若者で、岩塩を採ってはわしの孫…ウテナイに塩を贈っていた。いい表情をする男だった。だがある時じゃ…突然、採掘に使うピッケルをウテナイに向け、言ったのだ。
『俺はファガ・リンクスから出て行く。ヴィタポッセ様のお導きがあったのだ』
とな」
老人の声は震えていました。
「ウテナイは、その影の正体を知り、絶望して…自ら命を絶った…」
そう言ったとき、彼の頬を一筋の涙が伝わりました。湖底の乾いた空気のなかで、その涙だけがまるで湖の最後の一滴のようでした。
「娘さんよ、名前はなんというのだ? ただの旅人ではないとお見受けするが」
シュシュポッセは、穏やかに答えます。
「シュシュポッセよ。各地を歩いて髪飾りを作っているの」
老人は深く頷き、言いました。
「そうかそうか…、ではわしからのお願いじゃ。孫娘のウテナイの髪飾り―――シュシュを作ってくれぬか。墓に捧げて欲しいのだ。シュシュポッセよ、あなたを見ているとウテナイを見ているようじゃ。こんなにも懐かしい気持ちにさせてくれるとは…」
シュシュポッセは、老人の前で静かに糸を取り出します。湖底の乾いた空気のなかで、糸だけがかすかに光を宿していました。湖の塩の白。水面の青。そして、ウテナイが生きた証のような柔らかな光―――。糸が指の間を通るたび、湖の記憶が静かに揺れます。
老人に案内され、シュシュポッセはウテナイの墓に向かいます。彼女は編んだシュシュをそっと墓に捧げると、糸が震えました。そして、光が、やってきます。まだ、湖が湖だった頃へ彼女を誘ったのでした。
…水面がきらめき、塩の香りが漂い、人々の笑い声が響く。
そして、そのなかにウテナイがいました。ウテナイ―――若く、明るく、湖のように澄んだ瞳を持つ料理人。その隣には、岩塩を抱えた婚約者の青年、ヤークスがいました。二人は笑いあい、未来を語り、幸せそのものでした。
「ファガ・リンクスを、私たちで変えていきましょう。村一番の料理人になって、みんなの舌を満足させてみせるんだから!」
「俺もそうだな…、その手伝いをする。この湖に生きるひとたちの支えになろう。ウテナイ、きみの支えにも」
「ヤークス、私たち、ずっと一緒よ…。愛しているわ」
「俺も、愛している。すっと、一緒だ。きみのために、どんなことだってする」
…ヤークスの背後に、紫の揺らぎが立ちのぼりました。揺らぎは言います、
「我に命を与えよ…。永遠の可能性を与えん…」
ヤークスの瞳が濁り、ピッケルを握り締めます。ウテナイは、彼の異変に気付きます。
「ヤークス…あなた、どうしたの…」
ヤークスは、ウテナイにピッケルを向けて、言いました。
「俺は、きみのために、全てを採ってみせる」
ウテナイの声は、悲鳴とも似たものになりました。
「やめて…、あなた、そんなひとじゃない…!」
ヤークスは言います。
「俺はそのために…ファガ・リンクスから出て行く。ヴィタポッセ様のお導きがあったんだ」
ウテナイの心は、壊れたガラスのように音を立てて割れていきました。そして、彼女は絶望の…独りになった彼女は…自ら命を絶ちました。
シュシュポッセは、過去の様子を一見していましたが、ヤークスの後を追い、ヴィタポッセなる者を確かめに行きたいと思ったのです。ヤークスの足取りは重く、しかし迷いはありませんでした。彼の命は既に奪われ、ただ影の意志だけが身体を動かしていたのです。
そして、そこに…影の中心に…それはいたのです。
闇の奥で蠢く巨大な影。ひとの形をしているようで、しかし輪郭は常に揺らぎ、無数の命の光がその周囲に漂っている。それは、奪った命の残りたるもの。可能性を喰らい、命を喰らい、そして世界の未来を奪い続ける存在。間違いない、それはヴィタポッセでした。
シュシュポッセは、その周囲に漂う光の命に視線を奪われます。
髪の色も、瞳の光も、糸の気配も、「シュシュポッセ」と同じ。
ウテナイの墓の前で、シュシュポッセは膝をつき、胸を押さえました。
「なんてことなの…」
老人は言います。
「だいぶ長い時間、横たえていたから驚いたぞ。なにがあったのじゃ」
彼女は、自分の身にあったことを話しました。ウテナイとヤークスの愛の会話。ヤークスの変貌。影の王、ヴィタポッセとの対峙。
「そういえばじゃが。シュシュポッセとヴィタポッセ、名前が似ておるようじゃが、これは気のせいか?」
その問いは、湖底の静寂よりも重く響きました。彼女は、ゆっくりと立ち上がり、老人を見つめます。そして震える声で答えました。
「気のせいではないわ。私は……ヴィタポッセの一部だったようなの」
その告白は、湖底の村に落ちる、雷鳴のようでした。