
4.未来の糸-後編
山の入り口からすでに、紫の影が木々の間を這うように漂っていました。しかし、シュシュポッセは今度は負けません。彼女の髪に結ばれたシュシュが、影の気配を強く弾いていたのです。彼女は、静かに、山の奥へ進みました。
山の奥へ進むほど空気は重く、熱く、息苦しくなっていきます。影が濃くなり、木々は黒く枯れ、地面はひび割れ、まるで「命の終り」が形になったような場所でした。ここの中心で冥神の気配が、渦巻いていました。しかしシュシュポッセは、そのことよりも、その気配の前に立っていた人物に驚きました。
「久方ぶりだ、シュシュポッセ」
「あなたは…ファガ・リンクスのおじいさん?」
そうです、ファガ・リンクスで、ロッキングチェアで揺れていた老人でした。
「どうして、ここに?」
「わしは冥神をこの山に封じ込めることに成功した。ファガ・リンクスの秘術を使ったのじゃ。あとは、この存在をあなたがどうするか、だ」
シュシュポッセは息をのみます。老人は続けました。
「冥神は、あなたを取り戻そうとしている。だが、あなたはもう影の娘ではない。あなた自身の意志で歩くのじゃ」
深く、深く、その言葉はシュシュポッセの胸に響きました。
「ありがとう、おじいさん」
「行け、この山の奥に、冥神の核がある。あなたの糸で、未来を決めるのだ」
シュシュポッセは、シュシュを結びなおし、山の奥へと歩き出します。影が揺れ、空気が震え、冥神の気配が濃くなります。クルス低山は、彼女を迎え入れるように静まりかえったのです。
やがて、闇は光を拒むように濃く、足元すら見えないようになりました。ここは、クルス低山の最奥です。しかし、シュシュポッセには「糸の気配」がかすかに見えていました。その中心に、それはありました。
水の、未来の糸。
それは、水が持つ無限の可能性そのもの。雨となり、川となり、命を育み、世界をめぐり、文明を支え、そして未来へ流れ続ける―――。この未来の糸が、冥神ヴィタポッセの核として囚われていたのです。
シュシュポッセは、息をのみました。
これを断ち切れば、ガヴェンスだけじゃない、世界の水の可能性そのものが消えてしまう。でも、断ち切らねば冥神は永遠に命を喰らい続ける。どちらを選んでも、世界は大きく変わる―――。
と、闇の奥から「あの声」が響きました。
「どうした、娘よ」
その声は、かつてよりも弱く、しかし甘く絡みつきます。
「父さんをどうするつもりだ? この、弱った父さんを…」
シュシュポッセの胸が痛みます。
「おまえが戻れば、全ては元に戻る。水も、命も、可能性も…、おまえと共にあったころのように」
心のなかに、揺れる一つの糸がありました。水の、可能性の糸。シュシュポッセは、そのゆらゆら揺れる糸を見て、わずかにうつむきます。
「私は、影には戻らない。でも、世界の水を奪うこともできない…」
冥神は言います。
「さあ、娘よ、おまえの選ぶ未来はどれだ? 父さんにみせてくれ」
シュシュポッセは、その糸に手を伸ばして、息を深く吸い、吐き出すようにこう、けれどゆっくりと言いました。
「私はシュシュを作る。私にすることは、できることは、たったこれだけよ」
声は震えてなんかいません。むしろ、ずっと澄んでいました。
「私は、いままで旅で出会った大切な友だちにシュシュを作って、贈ってきた。カレアに、ダブリンに、そしてウテナイに……」
彼女の指先が、未来の糸にそっと触れます。
「私は次に自分にシュシュを作った。そして、これからも作り続けたいと思った。ガヴェンスの裁縫ギルドに入って、ずっと暮らしたかった。でも、それは…叶わなかった」
シュシュポッセは、水の未来の糸をつまみ、ゆっくりと編み始めました。その動きは、これまでのどのシュシュよりも丁寧で、どの糸よりも美しいです。
「世界の闇が蔓延るなか、私は思った。自分の作るシュシュが何の役に立つのか、考えたことがあった。ずっと疑問で、モヤモヤしてたわ」
編む音が、闇に響きました。
「でも…いま、答えが出た。私は、世界の未来のために、シュシュを作るんだってこと」
冥神の核が揺れます。
「水は世界を作った。そして世界の未来は断たない。冥神の未来も断たない」
冥神の影がざわめきます。
「その代わり―――私の未来を断つわ」
彼女は、美しく、笑顔でした。
シュシュポッセはの言葉を聞いた冥神は、声を震わして言いました。
「なに、娘よ、その判断は本気か? おまえの未来を断つと、おまえの命はなくなるのだぞ! そんなことをしてはならぬ!」
その声は、ただの父の声でした。
シュシュポッセは、静かに首を横にふります。
「もう決めたことだから」
彼女の命の気配が、糸のように細く、薄く、消えていきます。そして、冥神の影が、彼女の心から抜け落ちていきます。
「これから、世界の可能性を作るのはヴィタポッセや私ではない。あなたたち自身なのよ。カレアに、ダブリン、そしていまいる全ての命……みんな!」
光がはじけます。
「あとはまかせた……」
そして、シュシュポッセは、ひとつのシュシュだけを残して消えました。
―――闇は消えました。冥神の影も、その眷属たちも、世界から跡かたなく消えたのです。水の未来の糸は、静かに、穏やかに流れ始めます。世界は、正しい「可能性」を取り戻したのです。
老人は、残されたシュシュをそっと拾い上げました。その目には涙が浮かんでいましたが、どこか遠くをみつめるような光を宿していました。
「シュシュポッセよ、わしは二人目の孫を亡くした思いじゃ」
ウテナイに、シュシュポッセ。どちらも、老人にとっては可能性のある娘でした。しかし彼は、静かに続けます。
「じゃが、これから生けるもの自身が可能性を見出す世界が来るのを思うと…不思議な感覚じゃ…」
その声は、悲しみと希望が混ざった、深い祈りのようでした。
…
ガヴェンスの街に、新しい風が吹き始めていました。裁縫ギルドの前には、ひときわ目を引く銅像が建てられました。旅人なら一度は注目する、「シュシュポッセ像」です。銅像の支柱には、カレアとダブリンが刻んだ言葉がありました。
「未来を作った、私たちの友へ贈る 彼女のシュシュ より」
その頭には、彼女が最後に残したシュシュが飾られていました。風が吹くたび、そのシュシュがかすかに揺れ、まるで彼女が「大丈夫」と微笑んでいるかのようでした。
カレアは木こりギルドの制服のまま、ダブリンは商工ギルドの帳簿を抱えたまま、二人でその像を見上げます。
「ありがとう、シュシュポッセ」
その声は、ガヴェンスの空に吸い込まれていきました。