翌朝のことだった。SNSアカウントにアップロードしているフォトアルバムに、たくさん「いいね!」がついていた。木元さんからのものだった。小さな赤いハートが、フォトアルバムのなかの写真一枚一枚にそれぞれ、あますことなくついていた。…なにも、そんな出来のいい写真ではない。学部生だった頃に何気なく撮った空の写真ばかりだ。しかし、そのたくさんの「いいね!」は、今日の重い講義の前に、胸の奥をそっと支えてくれるようだった。
「ありがとう、木元さん」
思わずひとこと、つぶやいた。ぼくは深呼吸して、いつも通りに朝食を済ませ、みだしなみを整え、そしてもう一度深呼吸して自宅を出た。
気象学クラスの教室に入った。自分で思うが、そのときのぼくの顔は、真剣な表情をしていたと思う。パッとすぐに目線がいった木元さんの様子が、ぼくの真剣な顔をすぐにくみ取ったように、同じく真剣な表情、姿勢にあらわれたからだ。ぼくは、ほんの少し間をおいてから話し始めた。
「今日は…『風』の話をします。…風がもたらすもののなかには、美しいものだけではなく、ときにひとを傷つけるものもあります。代表的なものとして、台風が挙げられます。今日は特にこの台風について話します。まずはその仕組みからです―――」
「風」の話は、このクラスで以前に橋本教授がしたことがあった。地衡風があって…とか、どの力とどの力が釣り合ってどんな風が吹くか…というような気象学の基礎の部分だ。だけど今日はわけが違う。…一連の仕組みを解説し終えたあと、ぼくはスクリーンに画像を映した。
「ではここから、台風の実例をみたいと思います。まず20XX年の台風XX号の被害の様子です」
倒れた電柱。
冠水した道路。
屋根が飛ばされた家屋。
避難所で毛布にくるまるひとびと。
そして変わって、気象衛星ひまわりで撮られたの台風の大きな渦に、台風の眼。
まとまった積乱雲に、その周りを回転するスパイラルバンド。
それらは、日本に住むものなら誰でも見たことのある、空の脅威だった。
「―――以上が実際の被害の一例です。気象学は、美しい空を知る学問であると同時に、ひとを守るための学問でもあります」
発した言葉が、昨日の夕焼けの話とは違う重さで、講義室に静かに落ちた。
講義の最後、受講者から質問の時間がとられた。今日が気象学クラスのパート1の最終日だ。講義をする側として、受講者からの反応を知りたいというのが橋本教授とぼくの思いだった。
木元さんが、真っすぐ手をあげた。ぼくは彼女の真剣さを受け止めるようにしずかにうなずいた。木元さんは、ゆっくり話し始めた。
「今日の台風の話を聞いて、『空のしくみ』がひとの生活を左右することを初めて実感しました。昨日までの空の話は、色や雲の形が物語みたいで、とても綺麗だと思っていました」
彼女は、少し息を整えるように少し間をあけたあと、話した。
「でも……今日の話は、その『綺麗さ』の裏側にある痛みを知るものでした。そこで、どうしても聞きたいことがあります」
ぼくは、木元さんの目を真っすぐみた。彼女は、その視線を受け止めながら、言葉をつづけた。
「蒼木さんは、こういう『痛みのある空』を話すとき、どういう気持ちで向き合っているのですか? 空の美しさと空のこわさを、どうやって同じ学問として扱っているのでしょうか」
講義室が静まりかえった。他の受講者も、木元さんの質問に耳を傾けていた。それは、単なる気象学の質問ではなく、「空を学ぶ理由」に触れる問いだった。ぼくは、ゆっくりと息を吸って吐き出した。深呼吸だ。そして、話した。
「はい、木元さん。これから少しだけ私のことをお話しますね。
私が初めて気象学に興味を持ったのは小学生のころです。私は、あなたの言う『空のこわさ』のほうを先に感じてしまったのです。その頃に見た、氾濫する河。近所のものとは思えないこわさでした。やがて台風ののことを勉強するために気象庁のホームページで衛星画像をみることがありました。ものすごく大きい渦をみたとき…私はぞっとしました。なぜこんなにぞっとするのだろうと思いました。それからというもの、私は必死になって気象について学びました。この地球のひとりの人間として、何か役に立てることはないかと思ったからです。そのなかで、こわいだけじゃない、分かると楽しい部分もあったのです。雲や風や夕焼けのことなどがそうです。宇宙のことも少しわかりました。私が勉強してきて、まずこの楽しさを伝えたいと感じたのです。いきなりこわさを伝えてしまっては…いけない気がしたのです。だけども、地球に住むひとにとって、災害は避けて通れません。私はこのことも伝えたかった。そして、科学と防災、このふたつの観点から気象、そしてこれからの人間のあり方を見つめて欲しいということでこの講座を橋本教授と企画しました。木元さん、これが私の気象学を学んで今に至る経緯です」
こういって、ぼくはまた深呼吸をした。話した後、講義室はしばらく静まり返っていた。その静けさのなかで、木元さんはゆっくりと席に座り直し、ノートを閉じた。
彼女はまた挙手をして、立ち上がった。口元をみて、彼女も深呼吸しているのがわかった。
「蒼木さん、いまのお話、聞けて良かったです。空の美しさだけじゃなくて、空のこわさを知っているひとが、それでも空を好きでいて、誰かに伝えたいと思っていることが…すごく大事なことだと思いました。『怖さだけを先に伝えてはいけない気がした』と言った理由が、なんとなくわかります。空を好きになってからじゃないと、その痛みを受け止める準備ができないからだと思います。ですから…昨日までの空のお話も、今日の台風の話も、どちらも蒼木さんが伝えたい『空の物語』なんだと感じました。蒼木さんが気象学を学んできた理由を聞けて、私も…もっと空のことを知りたいと思います」
講義室の空気が、ゆっくりと柔らかさを取り戻して言ったように感じた。
講義の終りに、橋本教授から受講生に課題が出された。
「さあ、みんな、今週の講義を通じての課題を出すよ。みんなには、気象と自分自身とどうつながりがあるか、レポートに書いてきてもらう。400字詰めの原稿用紙5枚分だ」
講義室には、ちいさなどよめきが起こった。
―――いつもの帰り道。ぼくと木元さんは、お互いにお疲れさまという顔で話し合っていた。
「蒼木さん、今日は本当にお疲れさまでした」
その声は、昨日の夕焼けのときよりもずっと静かで、深いところに届く響きを持っていた。ぼくは少し肩の力を抜いて笑った。
「木元さんも、お疲れさまでした。今日は………ちょっと重かったですよね」
彼女はうなずいた。
「でも聞けて良かったです。空の美しさだけじゃなくて、『空がひとを守るために知るべきこと』があるって、ちゃんとわかりました」
歩きながら、空を見上げた。今日の空は、昨日の夕焼けとは違い、淡い灰色が混じっていた。
「課題……大変そうですね。原稿用紙5枚って、なかなかの量です」
木元さんは少し笑って、言った。
「でも、書ける気がします。今日の話を聞いて、自分が空とどうつながっているか、ちゃんと考えたいと思いました」
彼女のその言葉に少し驚いたように目を向けた。
「そう思ってもらえるのなら…今日、講義をした意味があった気がします」
木元さんは、昨日の夕焼けのときとは違う表情でぼくを見た。それは、ただ空の美しさを楽しむひとの顔ではなく、「空の痛みも受け止めようとするひと」の顔だった。
「蒼木さん、あなたが空を学んできた理由を聞いて、私も空のことをもっともっと知りたいと思いました。課題、頑張りますね」
胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
「はい。ぼくも、再来週にある討論の準備……頑張ります」
ぼくらの影が並んで伸びてゆく。昨日よりも少しだけ近く、でも今日の影は、どこか落ち着いた色をしていた。
「木元さん、どこかでリラックスしたほうがいい。そうしないと、いずれ壊れてしまうから」
なんとなく自然に出た言葉だった。ぼくはそんなことを言ってしまった。木元さんは不思議そうにぼくの表情を見ていたが、やがていつものふわっとした笑みをしてうなずいた。ぼくらはそこでわかれ、帰路についた。
―――その夜。木元はこれまでの気象学クラスでの学習を振り返っていた。今日は金曜だ。レポートの提出期間は、来週一週間のあいだ。そして更に次の週から気象学についての討論会がある。木元はまめにつけているスケジュール帳にその予定を書き込んだ。彼女は、課題にとりかかる前にSNSを更新したようだ―――
ぼくは、銭湯に行っていて、疲れを癒そうとしていた。風呂上がり、扇風機の前で涼んでいると、スマホの通知が来た。木元さんがSNSを更新したようだった。まず第一に、「今日は重い話をしたから、どう受け止めたか不安だ…」と反射的に思った。新しい投稿をみた―――
「風のお話
今日の講義は、これまでの『空の物語』とは違いました。
風がひとを守ることもあれば、傷つけることもある。
その両方を知ることが、気象を学ぶ意味だと感じました。
蒼木さんが話してくれた台風の実例は、
正直に言うと胸が痛くなるものでした。
でも、空の美しさだけではなく、
『空の痛み』も知ることが、
私たちが地球で生きるために必要なのだと思いました。
今日の話を聞けてよかったです。
レポート、ちゃんと書きます。
空のことを、もっともっと知りたいと思いました」
銭湯にから帰ってきて、一段落して、ゆっくりとベッドに体を預ける。今回は大役を果たした、伝えるべきことは伝えたんだ、あとは受講生からレポートを受け止めるだけだ、と思う。そして、もう一度木元さんのSNSをチェックする。
そこには、さきほど銭湯でみた投稿が、静かに、しかし確かな温度を伴って並んでいるように思えた。文章をゆっくり読み返す。………。前に読んだ時より、言葉が深く胸に落ちた。木元さんは、ぼくの言葉を、ちゃんと自分のなかで「受け止めよう」としている。その姿勢が、なにより嬉しい。投稿の最後の一文を読み返す。スマホを胸の上に置き、天井をみつめた。
よかった、伝わったんだ。
誰かに向けた言葉じゃない。ただ自分の心の奥にそっと置くためのものだった。…目を閉じる。木元さんの言葉がくれた静かな安心のなかで、ゆっくりと眠りへ落ちていった。