みそらの歩き方(5) / 短編小説

今日の講義では、橋本教授に変わって、グループAの代表であるぼくが話すことになっている。いつもより早い朝、顔を丁寧に洗いひげをそり、念入りに歯磨きをして、プレゼンテーション用のノートパソコンを鞄にしまって研究室に向かった。

「今日は『なぜ空が青くみえるか』という話をしましょう」
緊張するが、もう始まったんだ。ぼくの声は、少しも震えてなんかいなかった。青い空の一点に、ぷかりと存在するひとつの積雲を想像した。これはぼくだ。その積雲は境界がくっきりしていて、自身がここにいるとはっきり主張しているのだ。

「空が青く見える―――皆さんは当たり前に思っているかもしれませんが、その解明には、科学者たちの絶え間なき奮闘があったのです。あのアインシュタインも関わっているのです―――」

話すことに夢中だった。言葉が次々に出てくる。自分の研究分野のことをひとに話すことが、こんなにも楽しいと思えることは…なんて素晴らしいことなんだろう!

「―――レイリー散乱とミー散乱は―――」

話しながらふとグループBのほうへ視線を移すと、木元さんがいた。彼女は、ぼくの話していることを一生懸命聞いてメモをしているようだった。

そして、話は「夕焼け」になった。

「―――夕焼けが赤く見える理由は、青空と同じ『散乱』の仕組みです。私たちが見上げる空は波長の短い光、つまり青い光だけを残します。一方、夕焼けのときの太陽は低い位置にいますから、光が通る空気の道のりは長くなります。そうして今度は波長の長い光、つまり赤い光だけを残すのです。この赤い光だけが、私たちの目に届くのです」

プレゼンテーション用のソフトウェアを使って様々な空の写真を受講者に見せた。まず青空の写真、そして次に夕焼けの写真。夕焼けの写真をみせる頃には、彼らはもはや自然科学的な理由で夕焼けが赤く見えることを理解できている、理解してもらえたら嬉しいとぼくは願っていた。

10分休憩のときに、ぼくはグループBの机に座って木元さんと話していた。
「…蒼木さん、今日の夕焼けの話、すごく綺麗でした。昨日の帰り道で見た夕焼けが、『科学の言葉』でもう一度説明されて、なんだか胸がふわっとしました」
彼女は、ノートを胸に抱えながら続けた。
「青空の話も、散乱の話も、難しいはずなのに蒼木さんが話すと『物語の続き』みたいに感じられるんです。昨日の夕焼けと今日の講義がつながって…すごく嬉しかったです。それと……今回もありがとうございました」
その声は、昨日よりずっと自然であるように感じられた。

講義の最後に、様々な空や夕焼けの写真をもう一度見せた。こんな空もあるんです、という具合にいろいろな雲の写真も見せた。イワシ雲、うろこ雲、レンズ雲、ハローに加え、ダイアモンドダストなども。そして最後にぼくは言った。
「みなさんも、身近に気象学を感じ取ってみてください。今回の講義で気象学が、私たちの生活にごくありふれたもののように感じられ、そして『なぜこうなるの?』という疑問に対して、皆さんはその理由をたくさん知ったと思います」

帰り道で、木元さんと一緒に歩いていた。彼女は言う、
「明日で今週のぶんの講義は最後になりますね。今日は木曜日ですから」
そこで、ぼくは補足と意志を伝えた。
「えっと……つまり、明日の金曜日で今週の講義は終わりです。だから、今日のうちにしっかりと準備をしておきたいんです」
そのあとに、続けて、「もう少し一緒に帰りたいけれど」と心に思う。
木元さんはふっと柔らかく笑って言った、
「蒼木さんらしいですね。準備をちゃんとして、みんなに空のことをわかってもらいたいって思っているんだなって……。今日の講義で、すごく伝わりました」
彼女は、きっと今日みせた空の写真やぼくの言葉を思い出しているのだろう。

「今日の写真、すごく綺麗でした。空って、こんなに種類があるんだなって初めて知りました。蒼木さんが見せてくれたから、ただの写真じゃなくて、『空のページ』みたいに感じられました」
夕暮れの光がぼくらの影を伸ばし、その影は昨日よりも少しだけ近く重なっていた。彼女は、少しだけ歩く速度を落として言った。
「明日の講義、楽しみにしています。今週の最後だから……きっと、また『空のお話』が聞けるんだろうなって」
そして、ほんの少し照れたように、
「蒼木さん、今日もありがとうございました。また明日、よろしくお願いします」
ぼくらは互いに一礼してわかれた。

帰宅して、明日の準備をしていた。明日は「風」について話す日だ。顔がひきしまる。気象学について、ただ楽しい話だけではない。災害や、防災の事例の話さなくてはならない。橋本教授の気象学クラスでは、明日の講義のあと、受講生に対してレポートや討論を予定していたから、なおのことその準備で精いっぱいだった。自分の得意としている「学問だけの気象学」だけではないのだ。これはいままで木元さんに楽し気に話していたものとは毛色が違う。

資料を取り出す。
暴風で倒れた家屋の写真や、避難所の記録、被害の数字。
また別に、上昇流、下降流、地形風、フェーンの概念図。
ぼくたちをとりまく気象は、時にひとの生活を壊してしまう。

ふと、木元さんのことを思った。

夕焼けを見て、「胸がふわっとしました」を言ってくれた彼女。
ぼくの話を聞いて、必死にメモを取っていた彼女。
SNSであった「蒼木さんの予報、嬉しかったです」という言葉。

机の上の資料を閉じた。
「…この『痛みのある空』をどう伝えればいいのだろう」
空の写真フォルダを開きかけて、途中で手を止める。
「今回は……写真じゃないな」
そう呟いて、代わりに防災のパンフレットを開いた。

明日、ちゃんと話そう。
楽しいだけの空じゃなくて、
『守るための空』の話も。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

コメントを残す