翌朝、ぼくはゆっくりと目を開けた。頭痛や吐き気、身体の痛みはない。ただ、胸の奥に昨日の夜の余韻がまだ残っている。水を一杯飲んだ。昨夜のことが、まるで夢のように思い返される。
木元さんの声。
星空。
「空の物語を読みたい」という言葉。
そして、倒れてしまった自分。
少し―いや、かなり恥ずかしさを覚えながらも、スマートフォンを手に取り、木元さんのSNSアカウントを開いた。そこには、昨夜の日付で投稿された短い日揮のような文章が書かれてあった。タイトルは―――
「お空のお話」
木元さんは昨日のことをどう書いたのだろう。ぼくが倒れたことを心配しているのだろうか。それとも、空のことを綴っているのだろうか。
「昨日、空の『歩き方』を少しだけ知りました。
昼の空は生きていて、夜の空は静かに息をしていて。
そのどちらも、誰かと一緒に見ると、
まるで物語のページをめくるみたいに感じられるんですね。
また空のお話をしたいです。
できれば、昨日のひとと」
ぼくは胸のなかでふわっと温かくなると同時に、スマホを持つ手が震えた。それは酔いでも体調でもなく、ただ物語の続きが始まる予感だった。木元さんの投稿を読み直す。やっぱり震えてスマホを落としそうになった。ぼくは、昨日のことを鮮明に思い出す。日記にはこう書かれている。
「また空のお話をしたいです」と。ぼくはその投稿にコメントはしなかったが、「いいね!」はした。
それから着替えて、気象学クラスへ向かった。遅れてしまったが、クラスのアシスタントとして出席した。
研究室の扉を開けた瞬間、いつもの空気が流れ込んでくる。白い蛍光灯、資料のにおい、エマグラムのざらつき。昨日の夜とは全く違う世界だ。
グループBには、木元さんが座っていた。ぼくが遅れてきたことに気づいたらしく、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。昨晩のことを思い出しているのだろうか? ぼくが倒れたことも、星空を見上げたことも、「うつくしいひと」と言いかけたことも。
木元さんは、ただ、静かに資料を見ていた。…見ていたが、ぼくがグループBの近くを通ると、彼女は小声で、「今朝の『いいね!』、見ました。嬉しかったです」とそれだけ言って、また資料に視線を落とした。耳の先がほんのり赤いように見えたが、気のせいだろうか…?
ぼくは木元さんに一礼をした。「こちらこそありがとうございます」の代弁のつもりだった。講義の途中、昨日のようにグループBのところに、特に木元さんの隣に座った。
「昨日は積雲や積乱雲の話をしましたね。そして、図を見て雲のでき方も学びました。今日は、少しその続きからお話しましょう。雲ができる理由です。それは『上昇流』という流れのことです―――」
ぼくはグループBのみなに等しく目を配り話した。役目をこなしたのだ。そして10分の休憩の時間、木元さんに話しかけた。
「今日の空のお話はいかがでしたか?」
木元さんは、資料をそっと閉じて、ぼくのほうへ向き直った。
「…今日の説明、すごくわかりやすかったです。昨日よりも、ずっと『空のしくみ』が頭に入ってきました」
木元さんは、昨日の夜のことを思い出しているような、少し柔らかい表情をしていた。
「上昇流って、ただ空気が上に行くだけじゃなくて、『空が動いている理由』なんですね。昨日の積雲の話とつながっていて、なんだか物語の続きみたいに感じました」
彼女は少し照れたように笑った。
「蒼木さんが話すと、難しい図も、ただの線じゃなくて『意味のある形』に見えてくるんです。それがすごく不思議で―――でも嬉しいです。今日の空のお話も、また『歩き方』を教えてもらった気がします」
そこまで言って、ぼくの目を真っすぐ見て言った。
「今朝の『いいね!』、やっぱり嬉しかったです」
そのときぼくは思った、「誰か」というのは間違いなく自分のことだと。嬉しくてたまらなかった。
「木元さん、そう思ってもらって嬉しいです。ぼくが勉強してきたことを他の方に理解してもらえるのはすごく嬉しいんです。だから、このクラスを最後まで参加してくれるとありがたいです!」
木元さんは、昨日よりも自然な表情でぼくを見つめている。
「…蒼木さん、今日の説明もすごくわかりやすかったです。昨日の続きなのに、ちゃんと『別の章』みたいに感じられて。上昇流の話、もっと難しいと思っていたのに、蒼木さんが話すと、空気が動く様子が目に浮かぶんです。それに…昨日の夜のことがあったからかもしれません。空のお話を聞くと、なんだか『物語の続き』を読んでいるみたいですごく楽しいんです」
そしてほんの少しだけ照れたように笑うと、こう言った。
「もちろん最後まで参加します。蒼木さんが話す空のこと、もっと知りたいですから。…昨日の『誰か』って、蒼木さんのことですよ」
講義のあと、ぼくと木元さんは帰り道を歩いていた。
「木元さん、今日の夕焼けは綺麗だと思いませんか? 明日はちょうど夕焼けについて話すつもりでいます」
木元さんはぼくの指さした夕焼けのほうをみて言った。
「…綺麗ですね。昼の雲の『生きている』感じとも違って、夕焼けって、なんだか『終りの物語』みたいに見えます」
彼女は、空の端に残る橙色をじっと見つめる。
「…でも、終わりと言っても、寂しい終わりじゃなくて……次の章に続く前の、静かなページみたいな感じです」
歩きながら、彼女はぼくの横顔をちらりとみた…ように感じた。
「明日、夕焼けの話をするんですね。今日の空を見てから聞く夕焼けの話は、きっともっと『物語』みたいに感じられると思います。蒼木さんが話す空って、ただの気象じゃなくて、ちゃんと『読むもの』になっていくんです。だから、今日の夕焼けも、なんだか特別に見えます」
夕焼けがぼくらの影を長く伸ばしてゆく。その影は、昨日の夜の星空とは違うかたちで、ぼくらの距離を…そっと近づけているように思えた。
ぼくはこそりと言う。
「明日は、晴れますよ。傘の心配はありません」
木元さんはびっくりして、こう言った。
「…蒼木さん、どうしてそんなふうに言えるんですか」
声は柔らかく、少し照れたようで、でも確かに嬉しさが混ざっている…ような。
「気象学って、もっと難しい計算とか、図とか、データとか、そういうものが必要なんだと思っていました。でも……いまの言い方は、なんだか『私のための天気予報』みたいで」
夕焼けの空を見上げる。橙色がゆっくりと薄くなり、夜の青がが少しずつ滲み始めていた。
「傘の心配はありません、って…そんな風に言われたの、初めてです」
木元さんはそう言うと、そっとぼくの横顔を見た。
「蒼木さんが言うと、本当に晴れる気がしてしまいますね。なんだか…安心します」
ぼくは自身を落ち着けてこう返した。
「そう思ってもらえると、ぼくもとても嬉しいです」
ぼくは自然と微笑んでいたようで、木元さんも微笑んでいた。
「またご一緒したいのですけれど、明日の準備があるのでぼくはこのまま帰ります。それでは、また明日、よろしくお願いします、木元さん!」
ぼくは急いで家に帰り、自分のパソコンに入っている空の画像や宇宙の写真やらを探しそして見つけた。知らぬ間に、独り言がでた。
「どうやら…まあ…ある程度予想はしたいたけれど、ヴィジュアルと直観的な話をした方がひとはついてきやすいだろう…。それは、木元さんも同じはずだ」。
寝る前に、木元さんのSNSをチェックした。昨日の「お空のお話」の投稿が更新されていた。
タイトルは、「夕焼けのこと」。
「今日の帰り道、夕焼けがとても綺麗でした。昨日の夜空とは違って、夕焼けは『終りの物語』みたいだと感じました。でも、終わりというより、次の章へ進む静かなページのようで―――そのことを誰かと話せたのが嬉しかったです。明日、夕焼けの話を聞けるのが楽しみです。今日の空を見てから聞く夕焼けの話は、きっともっと綺麗なんだろうと思います」
ぼくは相変わらず手が震えていた。疲れではない。ただ、物語が静かに進んでいくことへの興奮だった。
「蒼木さんの『予報』、嬉しかったです」
ぼくは、笑みをこぼした…と思う。
「明日、もっといい話をしよう」
彼女の投稿に「いいね!」をして、部屋の灯りを落として、今度はぐっすり寝た。