みそらの歩き方(3) / 短編小説

居酒屋『在り処』に着いたぼくたちは、5番テーブルでゆっくりとした時間を過ごしていた。5番テーブルが一番落ち着けることをぼくは知っていた。
「もし良かったらさ―――」
ぼくはできるだけ声のトーンをゆっくりにして言った。
「―――木元さん、きみが気象学のクラスに来たのはどうしてか、きかせてくれるかい。珍しいんだ、人文からひとが来るのは…」

木元はグラスの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を落としてから、静かに口を開いた。

「……どうして、ですか」
木元はぼくの問いを反芻するように、一度だけ小さく息を吸った。
「理由は……たぶん、ひとつじゃないんです」
彼女は5番テーブルに片手を置いて話し出した。

「人文の世界って、『ひとの心』とか『物語』とか、そういう目に見えないものを扱うでしょう。私はそれが好きで、ずっとそこにいたいんですけど…」
夜空の見える窓のほうへ視線を向けた。
「ある日、ふと気付いたんです。空って、毎日違う顔をしているのに、誰もその『変化の物語』をちゃんと読んでいないんじゃないかって」
そう言って、ぼくのほうに向きなおった。
「雲が生きているって今日あなたが言ったでしょう。あれを聞いたとき、『ああ、やっぱり空にも物語があるんだ』って思ったんです」
照れたように笑った。
「だから気象学のクラスに来たのは……空の物語を読めるようになりたかったから。人文の世界で学んだ『心の読み方』じゃなくて、もっと別の読み方を知りたかったんです」
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「それに…蒼木さんがいるって聞いたから、という理由も、少しだけあります」

木元は、そう言った後、グラスを持つ手をそっと引き寄せ、ぼくの反応を静かに待っている…ようだった。
「木元さん、きみは丁寧なひとなんだね。物語を読むのをそんなに丁寧に考える女性に初めて会った気がするよ。ぼくは空以外のことなんて全然分からないひとさ、だからいわゆる『物語』を読み解くことや…こうやって女のひとと飲んだことはほとんどないんだ。ぼくは素直にきみはすごく丁寧なひとだと思ったんだ。きみなら空の物語を読めるようになれるよ」
ぼくはそう言い終えた…が、グラスをつかんだ木元の手を見て、内心すごく興奮していた。

落ち着いているけれど、奥には確かな温度がある声で木元は返した。
「…蒼木さん、そんなふうに言ってくれるんですね。丁寧なんて、そんな大したものじゃないですよ。ただ、空のことを知りたいって思ったとき、『読む』っていう行為が自然に浮かんできただけなんです。空って、ページがないのに毎日違う物語をみせてくれるから―――」
木元は少し微笑んだ。
「―――蒼木さんが空以外のことを知らないって言うの、なんだか可愛いですね。でも…その『知らない』っていう正直さが、私にはすごく魅力的にみえるんです」

…ぼくは「在り処」でこんなに酔うのは初めてだった。自分が、まるで夢の物語のなかにいるようだった。
「木元さん、ぼく、なんだかおかしいです…。なんでか分からないけど…具合が悪いとか酔いが過ぎたとかじゃなくて。きみと飲んでいるのが夢か物語みたいに思えるんです。あなたみたいな…うつくしいひとと…」
そこで…ぼくはぱたりと倒れてしまった。

それは、
初めて女の子と一緒の時間を過ごした少年のようでした。

「蒼木さん…!」
…薄膜の向こうで、木元さんが叫んだ。彼女は慌ててぼくの肩に手を添え、倒れた拍子にどこかぶつけていないか確認するようにそっとぼくの顔を覗き込んだ。店内の柔らかい照明が、ぼくと木元さんを少し赤く照らしている。木元さんは胸に手を当てて、彼女自身の鼓動が早くなっているのを感じながら、店員に話しかけた。
「すみません、水をお願いします。彼、少し酔いが回ってしまったみたいで…」
手に温かい感触を感じた。おそらく、木元さんがぼくの手を握ってくれているのだろう。
「蒼木さん、聞こえますか? 大丈夫…? ゆっくりでいいから、呼吸して」

彼女の声は、昼間の講義での戸惑いとは違う、柔らかくて、落ち着いた響きを持っていた。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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