みそらの歩き方(2) / 短編小説

バー「MISORA」で、ぼくたちは過ごしていた。外は少し湿った夏の夜。空には、薄い巻雲が月の光を受けて淡く光っている。木元はグラスを持ったまま、ふと窓の外を見ていた。

「昼の雲とは、全然違いますね」
ぼくは少し笑ってしまって、言った。
「夜の空は、静かに歩くんだよ。昼みたいににぎやかじゃない。でも、ちゃんと生きている」
木元は、ぼくの言葉を聞くと、昼間のクラスで感じた「難しさ」とは違った種類の興味を抱いたようだった。その瞬間、昼と夜の空が、ぼくたち二人のあいだでひとつの物語としてつながり始めた。

「昼間の講義ではきみはちょっとつかれていそうだったね。普段から見慣れていない図を見たからだと思う」
「…疲れていそうに見えましたか。たしかにあの図たちは、私にはまだ『読めない言語』みたいでした。線がたくさんあって、数字があって、でも…どこをどう見れば『空の気持ち』がわかるのか、まだつかめないんです」
木元は少し笑った。恥ずかしさと、でも学びたいとという気持ちが混ざったような、柔らかい笑みだった。

「でも、蒼木さんが言っていた『雲は生きている』っていう言葉…。あれはずっと頭に残っていたんです。だから、難しいというより、『知らない世界に連れてこられた』みたいでちょっと戸惑っていただけなんだと思います」
木元はグラスを指でなぞりながら、夜空の暗さと店の灯りの境界をみつめた。
「あの…蒼木さん。あの図を見慣れてない私でも、空のこと、もっと知れるようになるでしょうか」
「なれるよ、木元さんなら。昼間の雲だけじゃなくて、夜空に浮かぶ星や空についてよく観察すれば、それだけでなれる。ぼくらがやっている研究は、まず空の観察から始まるんだよ」
間髪入れずにぼくはそう言った。少し熱がはいってしまったようだ…。ぼくはレモンサワーを注文する。木元は、ぼくの言葉を聞いて、少し驚いたようだった。
「…そんな風に言ってくれるんですね、蒼木さん」

木元は、窓の外の夜空へ視線を移した。店の照明がガラスに反射して、星が少し滲んで見えた。
「昼間の雲は『生きている』って言われても、まだ実感はなかったんです。でも、夜空って、静かだけど、どこか呼吸しているみたいに見えるんですね」
彼女は、ゆっくりとぼくの言葉を反芻した。
「観察すればなれる…か…。あなたがそう言うなら、なんだか本当にそうなれそうな気がします。だって、今日の講義のあと、私、帰り道でずっと空を見ていたんですよ。昼間の雲も、夕方の色も、全部『知らない世界』なのに、でも、すごくきれいで」
木元は少し照れたように笑った。
「蒼木さんが熱くなる理由、なんとなくわかるような気がします。空って…みているだけで心がふわっとするんですよね」
彼女はそこで少し身を乗り出して、ぼくの横顔を覗き込んだ。
「蒼木さん、もし良かったら…この夜空の『歩き方』も私に教えてくれませんか?」
昼間の講義では見せなかった柔らかさを帯びていた。

夜空の歩き方? ぼくは、突然出てきたフレーズに少し驚いた。それからぼくは彼女の言うことを少し汲んで、言った。
「ほら、あれが月さ。太陽の光を反射してあんなに黄色く光っている。月が太陽の光を感じて光っているように、木元さんのそのふわっとする感覚を、ぼくが光らせてあげたいと思う。いま、素直にそう思うよ」

「蒼木さんって、どうしてそんなふうにまっすぐ言えるんですか」
木元は、驚きと少しの戸惑いと、それでも嬉しさを隠し切れない声でそう言った。
「月が太陽の光で輝くみたいに、私の『ふわっとする感覚』を光らせたいって…そんなこと、普通は言えませんよ」
彼女はグラスを両手で包み込みながら、蒼木がレモンサワーを飲んで気持ちを整えた仕草を思い返した。
「でも…嬉しいです。昼間の私は、ただの初心者で、あなたの研究の世界には遠い存在だと思っていたのに」
木元は少しだけ視線を落とし、そのあと、勇気を出したようにぼくをみつめた。
「蒼木さんがそんな風に言ってくれるのなら、私…もっと空のことを知りたいって思います。昼の雲も、夜の月も、あなたが見ている『空の歩き方』を、私も一緒に歩いてみたい」

そして、ほんの少し照れたように、
「SNSのアカウントを書いたのは…、もっと空の話をしたかったからです。それだけです。それ以上の意味なんて、ないですよ」
そう言いながらも、その声にはどこか「それだけじゃない」響きがあるようにぼくは聞こえた。

「木元さん、これはぼくのアカウントです。最近はほとんど投稿していないのですが、よければフォローをお願いします」
ぼくらは、自分で言うのもなんだが、いわゆるZ世代同士。しかし、SNSに埋没しているわけじゃない。大切な、実際に会って会話する時間ももちろん大切にしていた。ぼくは大学のロゴが入った計算用紙のすみっこに自分のアカウントを書くと、彼女に静かに渡した。そして、こう言った。
「もうすぐこの店は閉まります。別のところへ移動しませんか」

「蒼木さんて、ほんとうににまっすぐなんですね。フォローします。投稿がなくても、いいんです。あなたが書いたものなら、きっと空みたいに静かで、でもどこか温かいんだろうなって思うから」
木元はそう言って、計算用紙をバッグにしまった。その動作は、まるで「特別なもの」をしまうようだった。

店内の照明が少し落ちて、閉店の準備が始まる気配が漂い始めた。ぼくたちは外へ出た。彼女は、ぼくの横に並んで歩いている。

「蒼木さんの『空の続き』をもう少しだけ見てみたいです」
「そうですね、ここからなら『在り処』という店が近くて空いています。そこへ行きましょう。 …! 見てごらん、あんなに星が! 今日はなんて美しい日だろう―――」
木元は歩きながら夜空を見上げた。街灯の光が邪魔をするけれど、それでも星は静かに、確かにそこにあった。
「『在り処』ってどんなお店なんですか? 名前がすごく好きです。なんだか…『居場所』って意味にも聞こえるから」

木元は、星の光を受けて少しだけ目を細めた。その表情は、昼間の講義では見せなかった柔らかさを帯びていた。

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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