「あなたが空を見上げると、ほら! いつの間にか『彼ら』はそこにいる。彼ら―積雲というんだが―今日もみそらを歩いている。彼らはいつの間にか現れ、そしていつの間にか消えている。せつないかもしれないが、でも、彼らは『生きている』んだ」
橋本教授はこう言うと、指を立て、積雲を指さした。
学生のひとりが、手を挙げて発言した。
「『生きている』ってどういうことですか? 彼らは雲なんですよね? 人間や動物のように生きているという表現はおかしいと思います…」
彼女は木元という、最近気象学のクラスに入ったばかりの…いわゆる「初心者」だった。橋本教授はこう返した。
「きみの言いたいことはわかる。でもね、気象の世界では、彼らは『生きている』んだ。生命とは何かまで私は詳しく説明することはできない。生物学には疎いものでね…。いいかい、木元さん。雲は気象の『細胞』だ。きみはマルチセル、スーパーセルなんて言葉を耳にしたことはあるかな」
木元は依然、不思議そうに橋本教授を見つめている。彼女は消え入りそうな声で言った。
「雲に関係しているのですか…?」
橋本教授はゆっくりと肯いた。
「ああ、そうさ」
橋本教授は黒板にもくもくとした雲…そうだ、ぼくたち気象学クラスの補助研究生にとってみればお馴染みの(または、天気について関心があるひとなら聞いたことがあるだろう)積乱雲を描いた。
「これが雲の王、積乱雲だ」
それから教授は木元たちの学生グループBにいくつかの資料のを配った。そのなかには、ぼくたちにはお馴染みのエマグラム、ひまわりの赤外画像があった。教授はこれから木元たちに雲ができる仕組みをするのだろうとぼくは思った。ぼくたちグループAは、教授のアシスタントをする係になっている。グループBの理解を助けるためには、なんでもやらなくてはいけないし、もちろんぼくはそういう意志がある。
「―地上の私たちは、いまここにいる。およそ1000hPaの地上です。そこで空気は飽和していないとします。まず空気は乾燥断熱的に持ち上がり―」
グループAの山田はそう説明するが、初心者にとってはちょっと敷居の高い説明だと思う。かといってぼくも山田のように説明してしまうと思うが…。
ぼくは何気なく木元のそばに座り、グループBのなかに自然に入っていった。
「山田君が説明しているのは、雲ができる理由についてなんだ。木元さんは、さっき教授が言っていた『生きている』という言葉に引っかかったみたいだけど…。空は絶えず変化している。その変化をもたらすものが空の細胞と言える雲なんだよ。そういうことを教授は言いたいんだ」
木元はぱらぱらと資料を見ていた。彼女は難しそうな顔をしてぼくに顔を向け言った。
「雲のことを知るとき、色々な図を使わなければならないんですね…。でもそんな『生きている』のを…少ない衛星画像やエマグラムで全て言い表すことはできないんじゃありませんか…?」
ぼくはちょっと詰まったが、すぐに返すべき言葉を見つけた。
「雲の『生きざま』を調べるのには、もちろんそれらの資料だけでは不十分だよ。もっと物理学、化学のことを勉強しなければならない。もちろん数学も必要なんだ」
木元は、少しため息を吐いた。
「大変ですね、『生きている』というのは…」
それからしばらく木元と話した。彼女は人文学部の学生だったが、自然科学のことも興味があるらしい。学部を隔ててぼくらはあるが、世界を知るためにはそういう「垣根」を越えないといけないとわずかながら思う。ぼくたちは同じ空の下にいるからこそ、空のことを知るためには広い知識を得なければならない。
「もっと空のこと、知りたいです」
その日の講義の終りに、木元からそういうメッセージと一緒にSNSのアカウントが書かれた付箋紙をもらった…が、これから木元とぼくがどうなるかは…別の話になるだろう。ゆえに今日一連あったことをここに記すのは、ここまでにしよう。
空の歩き方は、なにも決まっているわけではないのだ。