みそらの歩き方(7) / 短編小説

その来週の水曜のことだった。木元さんのSNSが更新された。投稿の内容は、次のようなものだった。

「レポートを書き終えました!

先週の講義を振り返って、レポートを書き終えました。
空の美しさと、空の痛み。
どちらも『自分の生活にあるもの』だと気付きました。

蒼木さんが話してくれたことを、
自分の言葉でまとめるのは大変でしたが、書いているうちに、
自分がどれだけ空に助けられてきたかを思い出しました。

来週の討論会も頑張ります。
空のことをもっと知りたいと思いました。
この講義を受けてよかったです」

スマホを胸の上に置き、天井を見つめた。その言葉は、いままで講義のために準備してきた疲れをそっと溶かすような響きを持っていた。

木曜、木元さんがレポートを提出しに来た。橋本教授の研究室に彼女は訪れたのだ。ぼくらは久しぶりに対面した。木元さんは言った。
「お久しぶりです!レポートを提出しに来ました。もしよろしければ、このあとお茶しませんか?」
いきなりのことでぼくは驚いたが、結局ぼくらは喫茶店「ウィンドミル」へ行くことになった。

ウィンドミルは、大学から少し歩いたところにある、古い木の扉が特徴の喫茶店だった。風車の小さな飾りが入り口にかかっていて、店内にはコーヒー豆の香りが静かに漂っている。
ぼくらは窓際の席に座った。外には初夏らしい少し湿り気を含んだ風が通り過ぎていく。木元さんは、レポートの入っていた封筒をそっと机に置いた。

「蒼木さん、本当にお久しぶりです。提出できて、なんだか肩の荷が下りました」
自然と笑みがこぼれる。
「木元さん、お疲れさまでした。原稿用紙5枚って、なかなか大変だったでしょう」
「でも、書いているうちに自分がどれだけ空に守られているか思いました。気象学クラスがなければ、こんなふうに考えることはなかったと思います」
メニューを閉じて、木元さんの言葉を受け止める。
「そう言ってもらえると……ぼくも講義をした甲斐があります」

コーヒーが運ばれてくるのを待ちながら、ぼくらは静かな時を過ごしていた。
「蒼木さん、来週の討論会、楽しみでもあり、ちょっと怖くもあります。でも……空のことをもっと知りたいって気持ちが強いです」
木元さんは、レポートを書き終えた達成感と、来週の討論会への緊張を抱えているのだ。ぼくは返した。
「大丈夫ですよ。討論会は答えを出す場ではなくて、『考える場』ですから。木元さんなら、きっとよく話すことができます」
彼女は、少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると、安心します」

「木元さん。ぼくの小さい頃の『気象』に関するもうひとつの話をしよう」
ぼくはそう切り出した。木元さんは、少し目を見開いて驚いたようだった。

「ぼくが小さい頃に『気象』で怖い思いをしたのは、氾濫した川や台風の渦だけではないんです」
木元さんは静かにうなずいて続きを待った。
「もうひとつ、忘れられない出来事があります。それは………『風』です」
窓の外で揺れる街路樹をちらりとみて言った。
「小学校の帰り道で、突然ものすごい突風が吹いたことがあって。傘を持っていたんですが、その傘が裏返ってぼくは転びそうになりました。周りの大人たちも驚いていて…そのとき、初めて『風ってこんなに強いんだ』と思ったんです」
木元さんが息を飲んだのがわかった。
「家に帰ったら、ニュースで『突風被害』が報じられていて、近くの町では屋根が飛んだ家がありました。ぼくはその影像を見て、胸がぎゅっとして、怖くて、でも同時に知りたいと思ったんです。なんでこんなに風が吹くんだろう。どうしてこんなに急に強くなるんだろう。その理由を知れば、怖さが少し減るのではないかって。それが、ぼくが『風』を学び始めた最初のきっかけでした」
木元さんはカップを置き、やがて話し始めた。声は柔らかく、けれど確かな重みをもっていた。

「………そんなことがあったんですね。先週の講義で『風の痛み』を知ったけれど、蒼木さんはそれを小さい頃からずっと抱えてきたのですね」
彼女は微笑んだ。
「でも………その怖さが、いま蒼木さんの『優しさ』につながっている気がします。空のことを伝えるとき、いつもすごく丁寧で、誰かが怖がらないように話をしてくれるから」
彼女の言葉に少し照れてしまった。

「蒼木さん、わたしの『気象』に関する話をしよう」
木元さんが、ぼくの真似をするかのように話し始めた。その様子は、どこかコミカルだった。彼女は、コーヒーカップを両手で包みながら、少し照れたように、でも楽しそうに話し始めた。

「私の『気象の原点』は、蒼木さんみたいに怖い体験じゃないんです。その日はすごく晴れていて、空がどこまでも青くて…海と空の境目がわからなくなるくらいでした」
彼女は、少し遠くをみるように目を細めた。
「そのとき、母が言ったんです。『空ってね、毎日違う顔をしているんだよ』って。それがすごく印象に残っていて…。それ以来、空を見るのが好きになりました」
ただ静かに彼女の言葉を聞いて、その言葉の柔らかさを受け止めた。
「でも、ただ好きなだけで、『どうして違う顔をするのか』までは考えたことがなくて。講義を受けて、初めてその理由を知ったんです」
少し笑って彼女は言った。
「だから、わたしの気象の原点は…『空が毎日違う顔をしていることに気付いた日』です」

しばらく言葉を探していて、思ったことを口にした。
「すてきですね、木元さん。ぼくは怖さから入ったけれど、木元さんは『気付き』から入ったんですね。空の違いを感じ取ることって、気象学の入り口として、とても大事なことなんです」
木元さんは少し照れているようだった。
「ぼくたちは、入り口は違っても、いま、同じ空をみて学んでいるいるんですね」
彼女は静かに、こくりとうなずいた。

「ところで木元さん」
木元さんは少しはっとなってぼくをみた。
「さっき、ぼくをまねしたのかい? なんだかすごく楽しそうだったけど…。でもそれだけ、ぼくは特徴的だったのかな。あの真剣な尋ねも、真剣に聞いてもらってすごく嬉しかったんだ」
木元さんはまたカップを置いて、少しだけ肩をすくめるようにして言った。
「………まねしちゃいました。だって蒼木さん、あのときすごく『語り部』みたいだったんです。気象の話なのに、物語を語るみたいで……つい、まねしたくなっちゃいました」
彼女はからかいではなく、むしろぼくには『親しみ』のような感覚があった。
「でも、蒼木さん、わたし、本当に真剣に聞いていましたよ。あの質問は…どうしても聞きたかったんです。空の美しさと痛みを、どうして同じ学問として抱えているのかなって」
彼女は続けた。
「蒼木さんの答え、すごくまっすぐで……。聞いていて胸がぎゅっとしました。だから、まねしたのは『楽しくて』というより、なんだか、その語り方が好きだなって思ったからです」
ぼくは思わず笑ってしまった。
「それは…なんだか嬉しいですね」
木元さんはコーヒーを一口飲んで、少しだけで照れたように言った。
「蒼木さんの話しかた、わたし、けっこう好きなんです。真剣な時は真剣で、楽しそうなときは楽しそうで…そのまま伝わってくるから」
胸の奥が静かに温かくなった。

ぼくたちは、ウィンドミルでずっと話していたが、お互いレポートや討論会については話題は出さなかった。きっと木元さんもぼくと同じように当日を「楽しみ」にして、敢えて避けていたんだと思う。
ぼくらは、それぞれの学生生活などについておしゃべりをしたあと、互いの帰路についた。

シャワーを浴びて、部屋に戻ってくると、スマホのプッシュ通知があった。木元さんのSNS更新の通知だった。すかさずチェックする。

「今日は、すてきな時間でした

レポート提出のために研究室へ行ったら、久しぶりに蒼木さんと会えました。なんだか、講義室とは違う空気で話せてとても楽しかったです。

ウィンドミルでお茶をして、学生生活のことをいろいろ話しました。気象の話も少しだけ。蒼木さんの『もうひとつの気象の原点』を聞けて、なんだか胸がじんわりしました。

来週の討論会、楽しみです。今日は、ありがとう」

思わず小さく息を吐いた。自分が話した幼い頃の記憶を、こんなふうに受け止めてくれるひとがいることが、少し不思議で、少し嬉しかった。スマホを胸の上に置く。その言葉は、講義の重さでもなく、レポートの緊張でもなく、ただ「今日の時間」を素直に喜んでくれたひとの言葉だった。

翌日、橋本教授に呼ばれた。
「学生のレポートを読んで欲しい」ということだった。教授は言った、「きみと木元君は仲が良いらしい。私は良い意味で言っているんだ、気にしないでほしい。ただ、木元君のレポートがあまりにも心を打ったものだから、きみにも読んでもらおうと思ったわけだ―――」
教授からそのレポートを受け取ると、家に帰り、じっくりと読むことにした。

木元さん、拝読しますよ!

木元さんの文章は、当然ながら、講義で聞いた内容をただまとめたものではなかった。それは、自分の生活のなかにある「空」を、ひとつひとつ丁寧に拾い上げた記録だった。

幼い頃に見た海と空の境目。
毎日違う顔をする空に気づいた瞬間。
夕焼けの色が変わる理由を知ったときの驚き。
風の怖さを初めて実感した日のこと。
そして、蒼木の講義を通して「空の痛み」を知ったこと。

どの段落にも、彼女が自分の言葉で「空と自分のつながり」を探した跡があった。…ページをめくる手を何度も止めた。文章の端々に、講義が彼女のなかでどう響いたかが書かれていて、それを読むたびに胸がじんわりと温かくなる。…レポートの最後の段落には、

空は、毎日違う顔をしている。その理由を知ることは、自分がこの地球で生きていることを知ることだと思いました。気象学は、わたしにとって『世界の見え方を変える学問』です。

と書かれてあった。何度もその一文の余韻を味わった。…レポートを閉じ、胸の上に置いた。呼吸に合わせて、上下するレポートを感じた。そうしてしばらくしたあと、ぼくは、自分のSNSを更新することにした。

「かけがえのない仲間

今週、クラス生のレポートを読みました。
それぞれが自分の生活と空を結びつけて書いてくれて、とても心を動かされました。気象学は、ただの学問ではなく、ひとの暮らしと深くつながっているものだと改めて感じました。

そして、かけがえのない仲間がいることをしみじみと感じました」

投稿したあと、スマホを伏せて胸の上に置き、深呼吸をした。

「…よし。来週の討論会も、頑張ろう」

投稿者: lute369

生きている限り、学ぶこと。それが私のすることです。 Dum spiro,disco.

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