その来週の月曜日のこと。今日は気象学クラスの討論会一日目だ。
講義室には、いつもの講義とは違う空気が流れていた。机の配置も、教壇に前向きではなく、円卓に近い「議論のための形」に変えられている。受講者たちは、それぞれのレポートを提出し終え、今日から始まる討論会に向けて緊張と期待を胸に抱いているかのようだった。それは段々と受講生が集まりだした講義室の空気から充分にわかる。
ぼくはというと、少し早めに講義室に入り、資料を整えながら準備をしていた。いよいよ始まるな、とひとりでに声が出た。いままで、かなり準備してきたことだ。その声は、いままで溜まってきたなにか…緊張のようなものを吐き出す際に自然に伴って出てきたものだろう。ここまで来たんだ、と自分に言い聞かせる。
気象学クラス、討論会一日目。
「今日から討論会を始めます。今日の議題は、『気象学は、どのように周知されるべきか』です」
橋本教授がそう言ったとき、講義室の空気が、更に引き締まった。教授は続ける。
「気象学は、専門家だけのものではありません。一般の人々にどう伝えるか、どう興味を持ってもらうか、どう『自分ごと』として感じてもらうか。それを、皆さん自身の言葉で議論してほしい」
今日の議題は、木元さんがレポートで書いたテーマと深くつながっている。
空が毎日違う顔をしていること。
その理由を知ることが、自分が地球で生きていることを知ることにつながるということ。
ぼくは、受講生たちの様子を観察する役目があった。木元さんはもちろん、他の学生がどういう風に話をするのか、すごく楽しみな面もあるのだ。
円卓の空気が張り詰めるなか、ひとりの学生が、ゆっくりと手を挙げた。
「気象学は、もっと『生活のなかの学問』として伝えられるべきだと思います」
緊張しながらも真っすぐな声。学生は続けた。
「天気予報は毎日見ますけど、その裏にある『どうしてそうなるか』は、ほとんどのひとが知らないままです。でも、本当はそこが一番大事なんじゃないかと思うんです」
静かにぼくはうなずいた。その学生は、レポートで「生活と空の距離」について書いていたひとだった。学生はさらに続ける。
「たとえば、風が強いのはどうして強いのか。雨が急に降るのはどういう仕組みなのか。そういう『理由』を知ることで、ひとは自然を怖がるだけじゃなく、ちゃんと向き合えるようになると思います」
円卓の周りの学生たちが、その言葉に静かに反応した。
「だから気象学は、専門的な言葉ではなくて、もっと『物語』として伝えられるべきだと思います。空がどうして今日の顔をしているのか、その物語を知ることが、防災にもつながるはずです」
「物語」という言葉に、納得した。実際の気象予報でも、ちゃんと流れがある。大域的な…日本全体を覆う空の気圧配置をみて、それから細かい地域の気象状況を見る。そして、その地域に顕著な現象があって災害を起こし得ると考えられるときには、適切な基準に基づいて注意報・警報を出す。
そこで、木元さんが静かに手を挙げた。
「わたしは……気象学は『気付き』から周知されるべきだと思います」
その声は、緊張を含みながらどこか柔らかくまっすぐだった。
「気象学って、専門的な言葉が多くて、難しいものだと思われがちです。でも、空は毎日、誰の頭の上にもあって……その『違い』に気付くことが、気象学の入り口になると思うんです」
円卓の学生たちが静かに耳を傾ける。
「たとえば、夕焼けの色が昨日と違うとか、風がいつもより冷たいとか、雲の形が変わっているとか。そういう小さな気づきが『どうしてだろう』につながると思います」
彼女のレポートに書いてあった内容とその発言は、深く響きあっている。彼女は続けた。
「気象学を周知するには、まず『空は毎日違う顔をしている』ということをもっと伝えるべきだと思います。その違いに気付くと、自然と興味が湧いてくると思います。そして興味が湧けば、防災にもつながると思うんです。ですから、気象学は難しい言葉よりも、まず『気付き』を大事にして伝えるべきだと思います。空の変化に気付くことが、自分がこの地球で生きていることを知ることにつながるからです」
木元さんの言葉は、講義で橋本教授やぼくが伝えたかったことを、彼女自身の生活のなかで再構成したものだった。「気づきから始まる気象学」。木元さんのレポートに書かれてあった核心だった。
討論会一日目が終わり、ぼくらはいつもの帰り道でお互いを励まし合っていた。
「いやあ、今日は木元さん、疲れた日なんじゃないかな。考えを述べるって、すごく大変なことだろうと思う」ぼくは木元さんにそう言ったけれど、彼女は歩きながら少しだけ首を横にふった。
「疲れたけれど…でも、すごく楽しかったです。自分の言葉で空のことを話すのって、こんなに緊張するんだって初めて知りました」
ぼくは言った。
「木元さんの発言、すごく良かったですよ。『気付きから始まる気象学』って、あれは本当に大事な視点だと思います」
木元さんは少し照れたように笑った。
「講義で気づいたことだから…ちゃんと伝えたかったんです」
ぼくは自然と静かにうなずいた。
「伝わっていましたよ。他の学生も、木元さんの言葉で空の見方が少し変わったように思います」
木元さんは、夕方の空を見上げた。今日の空は、討論会のテーマにふさわしい、薄い雲がゆっくりと流れる穏やかな顔をしていた。
「明日も頑張ります。今日みたいに、ちゃんと話せるように」
「大丈夫ですよ。今日の木元さんなら、きっと大丈夫です」
ふたりの影が並んで伸びてゆく。講義室の緊張とは違う、柔らかい帰り道の時間だった。
帰宅して、静かな部屋でひと息ついたところだった。机の上には、討論会の資料が広がっている。その横でスマホが震えた。木元さんがSNSを更新したのだ。反射的に画面を開いた。今日の討論会で木元さんの言葉がまだ胸のなかに残っていたから、その続きを聞きたくなるような気持ちだった。
「討論会一日目、終わりました
今日は討論会一日目でした。
すごく緊張したけれど、自分の言葉で空のことを話せた気がします。
『気付きから始まる気象学』という言葉を、自分で言いながら、ああ、これはわたしが空を好きなった理由だなってあらためて思いました。
帰り道、蒼木さんと話せて、緊張がすっとほどけました。明日も頑張ります」
いつものようにスマホを胸の上において、深呼吸した。木元さんの言葉は、討論会の評価でも、講義の感想でもなく、ただ今日の時間を素直に記したものだった。だけど、胸の奥に、静かで柔らかい灯りがともるような感覚があった。
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