やがて、木元さんは小さく笑った。
「……行きたいです」
その声は、いままでよりずっと自然で、どこか安心した響きを持っていた。
「今日の討論会は…胸がぎゅっとしました。Aさんのことも、予報の『可能性』のことも。だから、少し気持ちをほぐしたいです」
ぼくは彼女の言葉にそっとうなずいた。
「じゃあ、あの店にしましょうか。最初に行ったところ」
彼女は夕方の空を見上げながら微笑んだ。
「はい! あそこ、好きです」
ぼくらの影が並んで伸びてゆく。討論会の重さを抱えながら、それでも前に進むための静かで柔らかい帰り道のように思えた。
バー「MISORA」にて。ここはまさしくこの一連の話の原点ともいえる。向き合って、今クラスのお疲れさま会をした。
「乾杯。木元さんはすごいです。いままできみみたいな発見をじかに見れるのは初めてなんだ」
初めてここで飲んだ夜。まだお互いのことをよく知らなくて、でも空の話をするとなぜか自然に距離が縮まった夜。そして、彼女の気付き、ぼく自身の気付き。それらを思い返すと、心が満たされるようになる。
「気象学は、知識を覚えるだけじゃなくて、自分の生活や感情と結びつけて初めて『意味』になるんです。木元さんは、それを自然にやっていた。だからぼくは今日、すごく嬉しかった」
ブルームーンがやってきた。ぼくは少しそのカクテルを飲むと、木元さんも少し飲んだ。
「…そんな風に言ってもらえるなんて。わたし、気象学って『遠い世界』だと思っていたんです。でも、蒼木さんの話を聞いて、空の変化って自分の生活のすぐそばにあるんだって気付いて。だから、今日の討論会で話したことは全部、わたしが空をみて感じたことなんです」
少し頬が赤みを増してゆく。ぼくはそんなに飲めないけれど、誰かと、それも大事なひととならゆっくりとどこまでも行けそうな気がする。木元さんも、もしかしたらそうなのかもしれない。彼女は続けた。
「蒼木さんの言う『発散』…。…わたしも、そういう時間すごく大事だと思います」
ぼくは話題を変えようと思った。発散のつもりなのにしんみりしてはいけない。
「ぼくには、尊敬するひとがいるんです。藤田というひとです。ミスター・トルネード」
木元さんは、ぱっと顔を明るくして身を乗り出した。
「わあ! なんだかスーパーマンみたいですね!」
その反応に、思わず笑ってしまった。でもその笑いは冗談ではなく、「そう言いたくなる気持ち、すごくわかる」という共感の笑いだった。
「スーパーマン……うん、ある意味そうかもしれません」
グラスの縁を指で軽くなぞりながら続けた。
「藤田哲也博士。アメリカで竜巻の研究をして、竜巻の強さ表す『藤田スケール』を作ったひとです。世界中の気象学者が使っている尺度ですよ」
木元さんは目を丸くした。
「そんなすごいひとがいたんですね…!」
ぼくは少しだけ声を落として言った。
「藤田博士は、『空の暴れ方には必ず理由がある』って信じていたひとなんです。竜巻の跡を何キロも歩いて、倒れた木の向きや飛ばされた車の傷を全部記録して…そこから竜巻の内部構造を明らかにした」
彼女は息をのむように聞いていた。
「なんだか…探偵みたいですね」
「そう、空の探偵です」
ブルームーンを一口。淡く柔らかい風味を口のなかで確かめた。
「ぼくが気象学を続けている理由の一つは、藤田博士の『姿勢』なんです。空の変化を怖がらず、ただひたすら向き合って、その理由を探し続ける姿勢です」
「…蒼木さん、その話、すごく好きです」ぼくは驚いてしまった。
「空の暴れ方に理由があるって、今日の討論会の話にもつながりますよね。『怖さが減る』って、わたしがいったことにも」
静かにぼくはうなずいた。
「そうですね、木元さんの言葉は、藤田博士の姿勢とすごく近いです」
彼女は照れたように言った。
「そんな、わたしなんて」
「いや、本当に。空をちゃんと見て、変化を感じて、それを自分の言葉にする。それができるひとは、そう多くないんです」
彼女は、グラスをそっと持ち上げた。
「じゃあ、藤田博士に、そして蒼木さんにも、乾杯」
「乾杯」ぼくもグラスを掲げた。
グラスが触れあう音は、『気象学を学ぶ者の静かな誓い』のように響いた。
二軒目にて。忘れもしない、あの「在り処」の5番テーブルでのことだ。
「ぼくは夢があるんです。アメリカに行って、もっともっと勉強をしたいんです。アメリカには、日本よりはるかに大きい気象に関する組織があるんですよ。観測網も、研究施設も、予算も桁違いで。空の研究をするなら、あそこは本当に魅力的なんです」
木元さんは笑みをこぼして、言う。
「…蒼木さん、なんだかすごく蒼木さんらしいです。今日の討論会のときも思ったんですけど、蒼木さんて空のことを話すときだけ、ほんとうに『まっすぐ』になるんですね」
少し照れてしまった。
「そうですかね…」
「はい、すごくいいと思います」
自分の夢を語るのは、普段なら少し恥ずかしい。でも、木元さんの前なら、安心してどこまでも、自然に言葉が出てくる。夢の話は、ぼくらの間に静かに落ちて、5番テーブルの木目に吸い込まれてゆくようだった。
「木元さんは? 夢があるんですか?」
柔らかい灯りが、彼女の驚いた表情を確かに照らしていた。
「えっ…わ、わたしですか……?」
彼女は、5番テーブルの木目をみつめながら話し始めた。
「…夢、なんてそんな大したものじゃないんですけど。わたし…空を怖がらないようになりたいです。今日の討論会でAさんの話を聞いて…無関心でいることって、本当に危ないんだなって思いました。だから、空の変化をちゃんと見て、理由を知って、怖さを減らして、誰かにもそれを伝えられるひとになりたいです」
その言葉を聞きながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを―――酔いとはまた別のものだろう―――感じた。
「木元さんらしい、すごくいい夢だと思います」
彼女は照れて言った。
「そんな…でも、ありがとうございます」
「木元さん」
ぼくは静かに言った。
「夢って、最初はぼんやりしてていいんですよ。ぼくも、最初はただ『空が好きだ』ってだけでした。具体的な形は、空を見続けていく内に少しずつ見えてくるものです」
木元さんが、はっとなって言う。
「まるで、雲みたいですね…! …形が最初はなくても、歩き始めていいんだ」
「あ、あの」
ぼくは続けて話そうとしたが、急に心細さが出てきた。だから、次の一言は、相当勇気を出して言ったものだった。
「ぼくらは、同じ空の下、一緒だから…クラスが終わっても、ずっと友だちです」
木元さんは、目を瞬かせる。クラスが終わっても。課題が終わっても。気象学の講義がなくなっても。同じ空の下、一緒だから。木元さんは、満面の笑顔で言った。
「はい! 私もそう思います。クラスが終わっても、空は続いていますから。だから…友だちでいましょう」
胸の緊張が…ほどけてゆく。ふたつのグラスは、照明からの光をはねていた。
「木元さん、これからも、こうやって会って、空の話はもちろん、いろいろ話したいと思っています。あああの、木元さんが忙しかったら、その時は、木元さんのことを優先してください…って何を言っているんだ、ぼくは…」
彼女は満面の笑顔のままだった。
「もう、『まっすぐ』ですね、蒼木さん。そんなふうに言ってくれるの、すごく嬉しいです。わたしも、こうやって話す時間が好きです。空の話も、今日みたいな深い話も、それ以外のことも。忙しいときは忙しいって言いますけど、でも……また会いたいって思います」
「………ありがとうございます。本当に。SNSだけでなく、ときどき実際に会って、たとえば…そうですね、今日見た空とか、雲を共有できる友だちが周りにはいないんです、ぼく…。みんな研究一筋というか…」
「…蒼木さん。わたし、すごく嬉しいです。だって、蒼木さんみたいな人が、わたしとのつながりを大事にしてくれてるんですもの。空の話、雲の話、今日の気づきの話。わたしも、そういう時間が好きです。だから……これからも、会いましょう。お空を共有できる友だち、ここにいますよ」
彼女の頬も、ほんのり赤かった。ぼくは泣きそうだった。
「ありがとう……ぼくも、きみとの時間が好きです。また、もっと会って話をしたい。木元さんのことも、もっと聞きたいです」
「わたしも、蒼木さんとの時間が好きです。でも…どうしよう、言葉がみつかりません…! すごく大事なお話なのに」
ぼくらは、言葉を探していた。言葉が全くないのではなく、慎重に、適切な言葉を探していたのだ。でも、「ありがとう」という言葉を繰り返した。
家に着き、ぼくはスマホを開いた。
「空の話を、誰かとこんなふうに共有できるなんて思わなかった」
「大事な友だちができた夜」
「今日見た雲のこと、また話したい」
ぼくと木元さん、ふたりの投稿がまるで呼応するように並んでいる。その並びをみたとき、心が満たされていくのを感じた。
―――ぼくと木元さんとの物語は、こうして始まった。気象の話は広くて、とてもスケールの大きい話だが、こういう話の始まりでもあるんだ。お互い、大事な思いや経験を共有して、自分の糧としてゆく。
みそらの歩き方は、なにも一つに決まってはいないんだ。