私はリレー小説アプリ「novelnove」で、リレー小説を書いている。ペンネームは、「KdV」。今回の投稿では、私が参加したノベル「居酒屋『在り処』のおもひで」という作品について、全体の感想とどういう意図で今作に関わり書いたのかについて書こうかと思う。
居酒屋「在り処」のおもひで
https://novelnove.com/n/il7adphh0
私は、第二パラグラフを執筆した。
1.全体の感想(読者目線)
物語は、昔ながらの居酒屋の様子を五感を使った描写で表しているところから始まる。特に私は、一行にある「小気味よい音」から、ねぎをとんとんと切っている情景を想像した。まだ幼い頃、母親が朝ご飯でだすみそ汁の具をこしらえているところだ。ねぎやわかめ、豆腐など包丁で慣れた手つきで一定のペースで切るイメージである。昔懐かしい光景が浮かんだものだから、私は思わずこの第一パラグラフに魅了され第二パラグラフを執筆したわけだ。しかし、この居酒屋はただの居酒屋ではないらしい。物語の語り手である主人公は、いまいる居酒屋のことを知らない。だけども、昔懐かしい雰囲気は漂っていることを感じる。居酒屋のイメージはひとそれぞれあるだろうが、この、「知らない場所だけど、懐かしさ、親しさが湧いてくる場所」こそ、私の居酒屋のイメージである。最後に出てきた割烹着を着た親父さんの姿も、容易に想像できた。私はあまり居酒屋にいかないが、親父さんの不器用な言葉。しかし長年修行してきただろう料理の腕。知らない居酒屋だけど、自然に物語が広がっていきそうな感覚。そして最後の一行で、ここが現実の酒場ではないことにはっとさせられる。
揚げ出し豆腐、鯖の味噌煮といった具体的なメニューが登場する。主人公の背景が出てくるところだ。主人公は、かつて学生のときに輝いていたらしい。ひょっとするとこの居酒屋は、過去で同じく輝いていたひとが来る場所なんだろうか? そうだとしたら、主人公の他にやって来る客は、みな輝いていたのか? しかし、「死ぬ前に食べたかったもの」とは? 主人公はすでに死んでいるようだ。これからやって来る客も、死んでいてその後にこの居酒屋に来ることになるのだろうか? いろいろな考えが浮かぶ。そしておばちゃんから明かされる、この居酒屋「在り処」について。おばちゃんはたぶん、親父さんの妻だろう。夫婦で「在り処」を切り盛りしていると自然に想像できる。「こないだ起こった大きな戦争と災害」という言葉が出てきて、私は読んでいて背筋がぴんと真っすぐになり、引き締まる思いになる。いったいどの戦争や災害を指すのか、あるいはこの物語でこれから描かれるのだろうか? 現実でかつ最近のものだとしたら、ロシアとウクライナの戦いや、アメリカとイランの戦争を思い浮かべる。災害は、熊本地震や千葉豪雨を思い起こさせる。そして、ねぎたっぷりの揚げ出し豆腐と香ばしい鯖の味噌煮。まるで不幸を打ち消すような、対比的なものがやってきた。
おばちゃんの説明を、冷静に「そうなんですね」と返す主人公。彼は、どうやら戦争や災害の外にいる立場なのか、距離を置いているひとなのかもしれない。それでいて、「羊水に守られているかのような」とはどういうことだろう? 「在り処」でのことは、実は夢のなかの話なのか、それとも、死んだ主人公が生まれ変わってもうすぐ誕生するのかと少し深読みしてしまう、考えさせる表現である。
「在り処」には先客がいたようだ。女性だ。なぜ主人公は女性の存在に気付けなかった? 彼女はお好み焼きを注文する。お好み焼きについて私は知識は少ないが、広島のお好み焼きを想像し、瞬間的に「広島→原爆が落とされた→第二次世界大戦の終結」と連想した。確かに、この「在り処」には、戦争と関わっているのだ、と思った。ひどく薄い、という描写も気になる。これはなにかを示唆しているのだろうか?
そのお好み焼きを遠巻きにみて疼く主人公。どうやら彼は、どこかクールで、皮肉っぽい性格を持っているようだ。冷静に、女性とおばちゃんの談笑の様子を観察している。何を彼女たちは話しているのだろう? ここに来る前の、つまり死ぬ前の人生のことを振り返る? 「在り処」を経営しているうえで感じる苦労を笑い飛ばしている? いずれにせよ、暗くてしんみりした話題ではないことは確かなようだ。一読者として、客と店側の会話は気にかかった。もしかしたら、「在り処」が孕む謎や、生前の主人公はどんな存在だったか、どうやってこの場所に来たか、明らかになるかもしれない。しかし、居酒屋のおばちゃんとは、たいがい明るく、なんでも話をきいてくれるものだ(と私は思っている)。女性客も、安心して会話しているんだろう。
女性客の小学校の給食を、「当たり前」に分かるおばちゃんは、やっぱり居酒屋のおばちゃんだと思った。彼女はきっとパワフルで、夫である親父さんに付き添って、何年も「在り処」を経営してきたのだ。客層というものも、密かに見極めていそうだ。
そこで相席を求める客が来た。戦闘服を着た兵隊だ。そこで私は迷彩服を着たがっしりした体格をして、髪がまっすぐに整えられた男を想像した。彼の登場によって、「在り処」のそれまでの雰囲気が一変する。いや、これが「在り処」の本当の姿かもしれない。親父さんやおばちゃんは、客の生前の話を聞いて、彼らに「あちら」へ向かうための…心残りなどやりきれない想いを晴らすような役目をしているのではないだろうか。兵隊は、ボルシチを注文する。このとき、私はこの物語は現実の戦争がある世界が前提となっていることを理解した。ボルシチといえば、ウクライナだからだ。
兵隊は、ナターシャの味だ、という。おそらく兵隊の妻だろう。ナターシャという名前も、東欧系の名前だ。やはり現実の世界で起こった戦争で亡くなったひとが、ここに、「在り処」に来ているのだと理解した。言葉が何故か通じるのは、「死は全てのひとに等しく訪れる」という暗示だろうか、謎であるが、そう考えると、この話は非常に苦しいが、含蓄のあるものであると考えることができる。
兵隊は気まずそうに相席を離れる。なぜだろう、と当然ながら思った。この「気まずそうに」とか「そそくさ」などという言葉に、どこか引け目があり、申し訳なさを感じた。そして、お好み焼きを注文した女性が向かいに座り、ため息をついて言う。その言葉は、怒りによるものではないと感じる。仕方ないわよね、といった風に言葉を漏らすように私は感じた。その言葉の意味は何だろう? しかし、衝撃の言葉だ。「在り処」の雰囲気がまた変わった。それまでは、死の原因がそれぞれあって、独立した理由によって「在り処」に来た人々のことを思っていたが、どうやら違うらしい。生前に何かしら関係があった者同士が「在り処」にやってくる場合もあるのだと思い、戦慄が走った。女性は被害者で、兵隊たちは加害者であるみたいだ。しかし、前述した「引け目」のことはまだ分からない。戦争でひとを殺すときに兵隊がどういう気持ちでいるのかは分からない。しかし、この兵隊たちは、死んだ後に「在り処」で再び女性を目にし、「引け目」を感じているように見える。兵隊たちがどういう気持ちで女性をどう殺したか、謎が浮かんでくる。
女性は、その様子を打ち明ける。想像しようとするが、かなりきつい光景を思い浮かべる。どうやら女性は、四人の兵隊たちにひどく殺されたのだろう。私は真っ先に、銃剣で女性の身体を何度も突き刺す光景を想像した。そしておそらく性的暴行もされたのだろう。本当にひどい。なぜ女性はそのように殺されなければいけなかったか? 謎であるし、ひとの命を奪うという愚かしい行為に、なんの意味も見いだせない。
女性の言葉で、前パラグラフの「ため息」の意味が明らかになる。そして、仕方ないわよね、ではないことに気付く。女性は兵隊たちを憎んでいる。しかし、憎んでも仕方ない…と言っているように感じる。「どうせ死んだら同じ場所にいくんだから、私がひとり憎しみを抱いてもしょうがないわよね」。その言葉には、あきらめと疲れを感じる。
しかし、そのあきらめも、主人公に話すことによって、いくぶんかは軽くなったのかもしれない。ひどい殺され方をされて、もし「在り処」という中継地点を挟むことなく「あちら」に行ったら、女性は憎しみとあきらめが混在したままになるのではないか。しかし「在り処」があるからこそ、「あちら」へ行っても安らかにいられるのかとわずかに思う。安らかになれない場合もあるかもしれないが。
主人公とそういうやり取りをして、女性は「あちら」に言ったのだろう。いままでクールでアイロニックなイメージしかなかったが、主人公は、彼女の気持ちを「全て平らげ」たのだ。その行動で、私は主人公のイメージが一変した。彼は、人物の生きざまを汲むことができるのだ。
そして、やはり、「死は全てのひとに等しく訪れる」ようだ。「在り処」に訪れるひとは、「あちら」へ確実に行く。その際には、「引け目」も、「仕方なさ」も、「最後の記憶」として表されるのだ。この一節は、「在り処」のもつイメージと目的をより優しく描写しているように感じる。
物語はここで終わりではない。
背後で響いた声が、物語の意義を、特に「あきらめ」に関して浮き彫りにしていると感じられた。何が起きているのか、わからなかった。だが、子どもは女性のことを言っている。どんな関係があるのだろう? そして、すぐにさきほどの「かなりきつい光景」が蘇る。そうだ、四人の兵隊たちは、女性を犯したのだ。念入りな性的暴力を行なったのだ。いっそうきつい光景が思い浮かばれる。子どもは女性が孕んだ命。しかし女性は、孕んだことを傍点つきで否定している。泣きだす女性。子どもは、居酒屋にいるということは、子どもも死んだ存在である。
読んでいて、とても心が痛んだ。なんという愚かな暴力だ。そこまでの感情を、最終パラグラフで感じさせる書き手がすごいと思った。
しかし、物語はまだ続いている。
いままでのやりとりを全て聞いていたのか分からない。もしかしたら、なにも知らずに包丁を動かしていたのかもしれない。親父さんは、ただ、きっといつもしていることを尋ねたのだ。それも、「食べたかったもの」ではなく、「食べたいもの」を聞いている。ここには、食べる意志や生きる未来を感じられる。ここまでに至る話は非常に苦しいが、話をここまで読んできたひとは、親父さんの言葉で救われるだろう。
居酒屋に関するノベルだったが、酒を飲むシーンがひとつもない。これも何か意味があるのではないか。私の考えすぎかもしれないが…。読んでいて、ふと、そう思った。
2.第二パラグラフの意図
私は第二パラグラフを執筆した。そのときに思っていたことを、ここですべて語ろうと思う。
上記の感想にある通り、はじめ、私は五感を使って居酒屋のことを想像させる第一パラグラフが好きで続きを書いた。第二パラグラフをアワードにノミネートしたのも、自分の書いた「五感を使った表現」を示したかったからだ。書いたばかりの頃は、なんだかいい雰囲気の居酒屋で、生前の苦労話など聞くことのできる話がしあがりそうだ、と思っていた。しかし自分で書いていて不思議なことはよくあるものだ、「大きな戦争と災害」について書いたことがここまで後のパラグラフに影響するとは。でもまあ、これも自分の性分が表に出た証だとも思う。
戦争というのは、ロシアとウクライナとの戦争、そしてアメリカとイランの戦争のことを思って書いた。ここのところずっと世界を脅かしている、愚かな戦争だ。
災害というのは、2026年7月28日に起こった熊本地震のことを思って書いた。この第二パラグラフを書いた直後に千葉豪雨(2026年8月13日)があったから、いっそう事態はひっ迫しているように感じられた。
順番が正しくないが、揚げ出し豆腐と鯖の味噌煮について。このふたつは、私の大学生の時の学食で食べてた定番メニューだ。実際ねぎたっぷりで、おいしかった。学生時代の私は…輝いていたのかどうか分からない。しかし本心は輝いてほしかったから、その願望もあってあの表現にした。私はどのパラグラフも実話が元ネタである。あるいは全く想像できない景色を真っ先に描写するかのどちらかでなのだ。
親父さんでなくおばちゃんを出したことについて。おばちゃん、という存在はぱっと出したもので、重要な意味はなかった。しかし、後々考えてみれば、親父さんより客の心をみることができる。「在り処」にはいなくてはならないひとだと思う。親父さんは、淡々と料理に集中しているイメージがある…が、最終パラグラフでそうじゃないのかもしれないと思えるようになった。
「在り処」という居酒屋の名前について。この名前は、私が個人で書いている話に使った居酒屋の名前から採った。このノベルとそのノベルとは、作風が全然違う。しかし、「在り処」という名前を通して、ふたつのノベルが絶妙に重なり合うような…そうでないような…そんな曖昧な境界線を残せることができたのは、私がこの2作品に関わった証である。書き手の特権のようなものだ。
あちらへ向かう前の…という設定について。第一パラグラフの最後の一行から、頭を振り絞って膨らませた。生と死のはざまにある居酒屋とはどんなだろう、と興味を持って書くことができたのも楽しみだった。
以上のことから分かるひともいるかもしれないが、私は比較的楽しんで当初は書いていた。しかし、話の展開を見るたび、「そうきたか」(意外性)、「うあわ…」(悲壮感)と感じることがあって、本当のことを言えば、当初抱いていた種類の楽しみはないと思っていた。そう感じることはあっても、物語の深刻さ、深遠さ、含蓄があるなどいろいろ受け取るものはあった。これは、リレー小説ならではの展開である。ひとりだけで完結しないところがいいところだ。
このノベルには表紙がつかなかったが、もしつくとしたら、「在り処」の様子を描いたものになるだろうか、それとも…? そう考えるのも、また楽しい。
色々考えることがあって、このノベルに参加できて良かったと思っている。ご一緒した皆さま、本当にありがとうございました。